天北線 地図の旅

以前、天北線を列車時刻表から引っ張ってきたことがある。もう一度載せておく。

宗谷本線の位置

 これを国土地理院の地図と比べるとだいぶ様子が違う。音威子府から浜頓別までは現在の国道275号線にほぼ一致する。

275号線といえば、実は毎日私が通勤で走っている道路である。札幌の国道12号線から東橋のところで分岐し、その後は石狩川を挟んで12号線と並行しながら北に走っていく。いわば1級国道である12号線の裏街道となっている。

迂闊にも私はそれが旭川に入って終わるのかと思っていた。しかし実際には旭川には入らずにさらに雨竜川を北上する。そして朱鞠内湖の西を廻った後、名寄に出て国道40号に合流する。

しからばそれで終わりかと思いきや、音威子府までの道を国道40号と共有した後、音威子府からふたたび分かれ、旧天北線のコースを辿ってオホーツク海側の浜頓別に達する。

275号はそこで終わり、オホーツク海岸を網走から稚内へと走る238号線へと座を譲るのである。

つまり275号線というのは、むかしの鉄道路線で言うと札沼線、深名線、天北線という裏街道を一手に引き受けていることになる。

ヒマというわけでもないが、ちょっといまの地図で昔の駅をプロットしてみたいと思う。


天塩川は士別、名寄と続く平野の中をゆったりと北上するがここで、行き止まりになる。川は西に向かい、何重にも続く険しい山並みに切れ込んでいく。それは石狩川が旭川平野から空知平野へと抜けていく姿にも似ている。そこにも神居山がある。アイヌの人々はそこに神を見たのだろう。

まあ、そちらはそちら。今回は天塩川に注ぐ音威子府川を遡る形で北上する。

いまの地図では音威子府駅には鉄道の分岐点らしき姿はまったく見当たらない。引き込み線もないし、操車場跡らしき痕跡も見当たらない。駅前にもしもた屋が5,6軒ばかり。事務所や倉庫らしきものも見当たらない。

近くの道の駅で買い物を済ませて出発するしかないようだ。

やがて275号は宗谷本線の下をくぐり、西へ向かう鉄道と分かれる。多分この辺りで鉄道もふた手に別れたはずだが、地図の上ではそれらしきものは見当たらない。

500メートルほど進むと、道路の右手に痕跡が現れる。

 痕跡1

この辺りでは道路の東側を並走していたようだ。

痕跡2

地図の右下5,6軒ばかりの家がおそらく上音威子府の駅のあったあたりだろう。

左上には鉄橋への坂を登る土盛りが残っている。この後音威子府川とも離れ、その支流、天北川に沿ってさらに北上する。

275号は一気に尾根まで出て、そこから山を巻くようにし天北峠を越えている。しかし汽車にそのような芸当ができるわけはない。おそらくどこかにトンネル(天北トンネル)を掘って山向の栄川流域に出たのではないだろうか。

ウィキペディアによると上音威子府の後、天北トンネルを抜けたあとに天北栄という仮駅があったという。しかし現在の地図ではトンネルの痕跡もなく、小頓別までの間、ただ一軒の家もない。

痕跡3

小頓別の集落である。ここで栄川は南から来た頓別川に合流する。

郵便局を左に曲がって切通をまたぐその下が線路跡であろう。小頓別の駅跡には倉庫らしきものが二棟残っている。

小頓別を抜けると栄川の川幅は広がりその周りにはいくばくかの平地が形成される。岩手という10軒ばかりの集落があるから、開拓の手が入ったのだろう。頓別川には秋田という集落名もある。

いずれ鉄道がなくなったように、それらの集落名もなくなるのであろう。アイヌが死して地名を残したように、それらの開拓者たちも地名に名を刻むことになるのかもしれない。

それからの駅間はひたすら長い。上頓別は集落そのものが良く分からない。一応地図でT字路になってるあたりがそうではないかと想像している。線路の痕跡もまったく見当たらない。無意味な道路のある+字辺りはウィキペディアにのみ登場する「恵野」駅ではないかと想像している。

痕跡4

それにしても、時刻表の地図ではひたすら東に向かっているように見える天北線が実は北西に向かっているとは驚きであった。ずいぶん思い切ったデフォルメをするものである。

痕跡5

ピンネシリの集落は温泉があるおかげか、道の駅もあり、20戸近い建物が残っている。支流の稚内宇遠川の流域には豊平という集落もある。しかしここにも鉄道跡を思わせる痕跡は見当たらない。

ピンネシリの近くから線路跡を思わせる点線が登場する。この点線は一旦途切れるが集落を過ぎてまた盛り土の線として続く。途切れた部分も、道の駅を除けばそれらしくスペースが開いている。

痕跡6


松音知はもっとも線路の遺構が残された場所になる。地図上でこれが線路跡とはっきり同定できる。その代わり駅もふくめて集落そのものは消失してしまっている。

その代わり、ピンネシリと松音知のあいだにあったという周磨駅が、「いかにも」と想像される場所があった。チュピタウシュナイ川の合流点である。ただ地図上に地名の記載はない。

松音知を過ぎると、頓別川は知駒内川を合わせ大河の風貌を示し始める。天北線も上駒を過ぎて、最初の堂々たる街に到達する。これが中頓別町である。

それで駅とか線路跡がどうなっているかというと、地図の上ではさっぱり分からない。寿駅も新弥生駅も地名はあっても、それ以上の情報はない。

下頓別から先は海岸まで一面の平野だ。天北線は常磐という小集落を経由して浜頓別へと入っていく。ここから再び線路跡が出現する。

275号線で常盤橋という橋をわたってしばらくすると右手に入る道がある。ここにいかにも駅があったような雰囲気だ。

此処から先は、浜頓別まで、まるで今でも鉄道が走っているような地形がそのまま残されている。土盛りの線路跡が綺麗な弧を描いて街の真ん中に堂々と進入している。町並みもいかにも駅舎があり駅前広場があった雰囲気が残っている。

痕跡7

この浜頓別という町、なかなかに気取った街だ。札幌そのままに大通りが東西に走り北1条から4条まで、南は3条まで碁盤目に作られている。ちょっと西に傾いたところまでそっくりだ。

ここから天北線は北へ向かうのだが、南にも網走を目指して途中まで興浜北線が走っていた。駅から進行方向とは逆に南に向かい、旭ヶ丘と書いてあるあたりから東北東に伸びている直線がその跡地であろう。

天北線が宗谷本線として健在なら、この街は一つの中核都市になっていたかもしれない。そういう自負が伝わってくる街並みだ。

最後に国土地理院の全体図を載せておく。時刻表の地図との違いを体感されたい。

zentaizu
今回調べてみて分かったのは、これが当初の宗谷本線であったことはごく自然のことであったろうということである。上音威子府と小頓別の間の天北トンネルを除けば、これといった難所はない。多少距離は長くても案外こちらのほうが早かったかもしれない。

これに対して音威子府から中川に向かうルートは難所だらけだ。工費も相当かかっただろう。建設当時の土木工事の力量を考えれば、天北ルートは結構合理的だったのである。時刻表の「地図」に騙されてはいけない。



さて今度はこれをグーグルマップや古地図、“てっちゃん”たちのサイトで補強しなければならないが、それはいずれのこととしよう。