認知症患者の「権利」をめぐる議論には混乱がある。

1.人権尊重は「虐待防止」ではない

認知症という病気をめぐる問題と並んで、議論を混乱させる元になっているのが、患者の権利の捉え方である。

これは私の「オハコ」である。「療養権の考察」という本で徹底的に追究している。

今老健や療養病床では患者の人権が大いに問題にされているが、率直に言って虚しい議論である。

入所者を窓から突き落とすとか、縛ったり叩いたりという「人権侵害」が横行していて、それに対してどう防衛するかという観点から人権が議論されている。

それなりに深刻な問題ではあるが、人権尊重というよりは虐待防止の話であって、もっと根っこのところでの議論が必要だろう。

2.人権の根っこは「生きる権利」

少なくとも切羽詰まった人間にとって、人間の権利は生きる権利であり、生き続ける権利であり、この世で人並みの生活を送る権利である。

此処を人権論の核心におかなければならない。自由の問題も、契約上の権利も同様に重要であるが、それらはここから派生するものだ。

生きるためにはその手段が必要であるから、「生きる権利」は生活手段をもとめ、それを利用する権利となる。それは病人にとっては医療をもとめる権利となる。

ここまでは大方の合意は得られるであろう。しかし医療への要求は時とともに多彩かつ高度なものとなる。財政的限界もある中でどこまで受け入れるかはなかなかむずかしい。

患者の「生きる権利」は通り一遍の言葉では終わらないものを含んでいる。それが何を意味するのかを、その時々に具体的に、真剣に考えて行かなければならない。それが権利を尊重するということである。

(例えば、老人保健施設では入所者にアリセプトとメマリーを併用すれば確実に足が出る。介護職員の異常な低賃金を以ってもそれは贖えない)

3.病人の「生きる権利」を保障するのは社会である

病人の「生きる権利」とは病気を治す権利、ふたたび元気になる権利である。それは公的な権利であって、助け合いの精神にもとづく社会的合意を前提としている。

社会はこの責務の一部を家族に振り分けている。それは世のしきたりである。病人は家族に対して生きる権利を主張できない。(家族の問題は別途考察)

社会の規範たる法律も、基本的にはそうなっているはずだ。しかし現実にはそうなっていない。法の精神と法の運用実態が乖離しているのである。

今回の問題も、補償問題に閉じ込めた議論をすれば、いろいろな見方ができる。しかし患者の権利を尊重し、患者を死に至らしむることがないように対策を考えるのが、本来の責任の取り方である。

そのような再発防止義務は社会以外にはとりようがないのである。そしてそれは可能なのである。

多少持って回った言い方になるが、あの時特養に入っていれば、特養が長い待機を経ずに入所できれば、このような事件は起きなかったかもしれない。だから事故の補償義務は社会(はっきり言えば政府)にあるとも言えるのである。