ゆるへろ読書日記

というページに、京大・矢野事件―キャンパス・セクハラ裁判の問うたもの という本の紹介というか読後感想が載せられている。

なぜこれを読んだのかというと、「毛沢東のライバルたち」という年表を書いていて、向警予という女性活動家のことが知りたくなり、調べたところ小野和子さんという中国史研究家がヒットしたのである。

そこで“小野和子”で検索をかければ何か見つかるかと思いトライしたところ、肝心の向警予については何も引っかからず、代わりに京大セクハラ事件が出てきたという経過である。

学生時代に矢野暢という人の名前はけっこう眼にした。いわゆる京大人文研系の人だろうと思っていた。まさかこういうことになっていたとは知らなかった。

事件の顛末は直接 ゆるへろ読書日記にあたっていただくとして、「これはどうしようもないな」と思ったのが下記の一節だ。

読者にとって一番衝撃的なのは、やはり矢野暢氏が毎朝研究室の秘書たちに唱和させていたという「五訓」だろう。当時から散々紹介されているらしいが、資料として引いてみよう。

  1. 矢野先生は世界の宝、日本の柱です。誇りをもって日々の仕事にはげみましょう。
  2. 矢野先生が心安らかにご研究とお仕事に専念できるよう、私たちは、自分の持てるすべてを捧げてお尽くしいたしましょう。
  3. この研究室は日本じゅう、世界じゅうの注目の的、私たちは、すきのない仕事を通じて、この研究室の名誉と権威を守りましょう。
  4. 矢野先生のお仕事は、大学の皆様の心に支えられています。職場の人びとには礼儀正しく接しましょう。
  5. それぞれ健康に留意し、身辺をきれいに保ち、勤務に支障がないよう心掛けましょう。(p.232)

思わずもらい泣きしたくなるような悲しい訓戒だが、これを読むと彼の欲望の源泉が見えてくる。


完全に留め金が抜けているということだが、問題はそこではない。

一番肝心なことは上に立つ人間にはこういう性格の人物がいるということだ。性善説でやっていける間はそれで良いが、こういう人物が紛れ込んでくる可能性は常にあるということを銘記することだ。

民主主義のさまざまなツールはそういう時のための伝家の宝刀なのだ。

とんがって、突っ張って、逆らい続けることはそうだれにでもできることではない。しかしそれを排除せず、正しいと思えば、それに同感し、同調し、それを支持し、孤立させず、見殺しにしないことはだれでもできるし、しなければならない。

多少の勇気はいるが、それで自分の生活がめちゃめちゃになるわけではない。

それが私たちのようなかよわい一般市民にとっての民主主義の精神なのだと思う。