「徘徊老人の列車事故」の訴訟について

当然の判決であるが、逆に言えば、これまで下級審で常識に逆らうような判決が出続けたのかという点に興味がある。

関係者はA)本人、B)鉄道会社、C)家族という三者関係になっているが、そもそも家族には関係のないことである。

民法的には、もらい事故はリスクであり、鉄道という営業形態に不可避的に伴うものである。その任務に公的なものがあるとはいえ、営業形態が私的なものである以上、鉄道会社も一私人にすぎない。

むしろ踏切事故を防げなかった点では、安全管理責任が発生する可能性もある。学校や病院などの事故では、こういう観点のほうが当たり前になっている。

だから医療関係者や学校関係者なら、JR東海の官鉄気分丸出しの高圧的な態度を訝しみこそすれ、同調する気には到底なれない。

とくに、新幹線の吹田操車場をめぐるJR東海の傲慢極まりない対応を知っている私たちには、なおさらのことである。

しかし民法はそうなってはいなかったようだ。民法を条文通りに適用すれば地裁・高裁の判決が自ずから導き出されるようである。

率直に言って、地裁・高裁は臆病であった。人類史上例を見ないような少子・高齢化社会を迎え、これまでの規定では到底対応できないような事例であるにもかかわらず、旧来の判断基準をそのまま踏襲した。そうすれば必ず世の中の現状と激突するのを知りながらである。そして最高裁に判断をゆだねたようである。若手判事のいかにも少子・高齢化にふさわしい逃げっぷりだ。

そして、最高裁はあえて条文を新たに解釈して、下級審とは異なる判決に至ったのではないか。

従って、今度の判決はいろいろな形で影響を広げていくことになるだろうし、私たちもその意味を深く掘り下げておかなければならないだろうと思う。