ビキニ核実験 被爆年表 増補版

昨年の今頃、ビキニ年表を作成したが、今回新しい情報もあり、増補しようと試みた。ところが増補すべき情報が意外に多く(ということは前回の年表がかなり不十分だったということ)、新たに増補版として、もう一度アップすることにする。

ビキニ被爆者の調査で分かったことは

1.高い死亡率(年間消耗率)

2.比較的若年での死亡率の高さ

3.ガン死亡の比率が高いこと

これは、私が以前調べた「暁(あかつき)部隊被爆者の健康調査」の結果とも一致している。

なお、ロンゲラップなどマーシャル諸島の島民被爆については、いずれ別の機会に掘り下げてみたい。

古い方の年表に行く人もいるかも知れないので、そちらにはリンクを貼っておく。



1946年

7.01 アメリカ軍が太平洋の島での核実験を開始。58年7月までにビキニ環礁やエニウェトク環礁で計67回の核実験を行う。

8.05 ルイ・レアール(フランスのデザイナー)、「周囲に破壊的威力を与える水着」を「ビキニ」と名づけ発表。(こちらのリンクのほうがはるかに興味深い)

1950年 朝鮮戦争が始まる。マッカーサー総司令官は本国政府に対し原爆の使用許可を求める。

1952年 アメリカ、マーシャル諸島の西端エニウェトク環礁において初の水爆実験。アイビー作戦と呼ばれる。

マーシャル諸島は太平洋中西部に位置し、29の環礁と五つの珊瑚島からなる。人口は約5万人のミニ国家。

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               核兵器と核実験③ より転載

1953年 ソ連、水爆実験に成功。

1954年

54年3月1日

午前3時42分 アメリカ軍、ビキニ環礁で水爆実験をおこなう(キャッスル作戦)。最初の水爆は「ブラボー」(15メガトン)。この日を皮切りに、5月まで計6回、計48メガトンの核実験が行われた。

アメリカ軍は水素爆弾の威力を4~8メガトンと見積もっていたが、実際の威力は15メガトンに達した。実験を行なった島は消え去り、深さ120m、直径1.8kmのクレーターが出来た。


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             Castle Bravo

動画は下記で
Castle Bravo Nuclear Test 

午前4時頃 ビキニ東方160キロにおいて、焼津港所属のマグロ漁船「第五福竜丸」は、操業中に爆発に遭遇。アメリカが設定した危険水域の外であった。

久保山さん(無線長 当時40歳)の談話: 水平線上にかかった雲の向こう側から太陽が昇る時のような明るい現象が3分ぐらい続いた。約10分後、爆弾が破裂したような鈍い音も聞いた。

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75年、夢の島で廃船を待つ第五福竜丸。意外に大きく、長さ34メートル、140トン。船体だけで5メートル。マストの先端までだと15メートルある(高知新聞)。
 

午前7時 「第五福竜丸」の乗組員23名全員が放射性降下物に被曝。延縄の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物の降灰を受ける。

3.01 室戸船籍の第七大丸もビキニ近くで操業中、真っ赤な閃光ときのこ雲に遭遇。「死の灰」も浴びた。

3.01 第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していた。放射性降下物を浴びた漁船は数百隻、被爆者は2万人を越えるとされる。

水産庁によれば被曝船は延べ855隻とされる。うち1/3が高知県の船籍だった(高知新聞)


3.01 漁船の乗組員の他に、ロンゲラップ島民86名、ウトリック島民157名が被爆。ロンゲリック島で実験を観測していたアメリカ兵28名も被曝した。

ビキニから180km離れたロンゲラップ島民は避難させられずに、激しい衝撃波と爆風、そして放射能を含んだサンゴの粉が島中に降り積もった。やがて激しい嘔吐、皮膚の炎症、脱毛などの急性放射能障害が島民を襲った。マーシャル諸島(ビキニ水爆実験)

54年3月

3.14 第五福竜丸が操業を終え、母港焼津に帰港。乗組員全員が「急性放射症」と診断され、都内に搬送されて入院。

3.16 『読売新聞』朝刊一面で第五福竜丸の被爆が報道される。

「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」、「23名が原爆病」、「太平洋ビキニ環礁付近で、焼津の第五福竜丸が原子爆弾らしいものに遭遇した」、「水爆か」などと伝えられた。(竹峰誠一郎「ビキニ水爆被災から50周年 核実験場とされたマーシャル諸島の今」より転載)

3月16日 船員で中重傷の増田三二郎さん(28)と山本忠司さん(28)が東京大学で診察を受けた結果、原子病と確認される。

3月17日 「原爆マグロ」の報道により、仲買相場が半値にまで下がる。(高知新聞によれば6月には魚価は5分の1以下まで下がったという)

3月27日 シリーズ2回目の核実験。ロメオが爆発。

3月27日 核実験海域よりはるか東方で操業中の室戸船籍の第二幸成丸、“雪”(死の灰)を浴びる。このフォールアウトは2回目の実験により発生したものとされる。

第2幸成丸は高知県室戸港所属のマグロ船で192トン。故崎山秀雄船長の漁業日誌により詳細な航路が明らかになっている。幸成丸は2月24日に神奈川県浦賀を出航。ビキニ東方1000キロの海域で17日間の操業。この間に、3回の核実験があった。

3.18 水産庁は塩釜、築地、三崎、焼津、清水の5港を「遠洋漁業陸揚げ港」に指定。水揚げされたマグロすべてに放射能検査を義務づける。

3.31 水産庁が検査結果を発表。アメリカ水産庁の予測した危険水域の外でも、第13光栄丸・明神丸など漁船の多くに、相当量の死の灰が降り注いだ事を明らかにする。

3.26 「第五福竜丸事件 善後措置に関する打ち合わせ会」が第1回目の会合。この「打ち合わせ会」は安藤国務大臣を筆頭とし、外務、大蔵、農林、厚生など各省次官で構成された。記録には極秘の印が押されるなど、最高機密レベルの会であった。

3月 各地で水揚げされた魚に放射能が発見される。検査は船体とマグロについて行われ、人体の検査記録は除外されていた。

3月の核実験直後は、放射能に汚染されたマグロの部位は内臓やエラであったが、8月以降になると肉や骨からも放射能が検知されるようになり、特に半減期が30年と長いストロンチウム90などに汚染。「ビキニ事件の内部被ばくと福島原発被災のこれから」(山下生寿)より

54年4月

4.05 三崎に入港した第13光栄丸が高度の放射能汚染。船員中に白血球減少症患者が3人発生。約50トンのマグロは洋上放棄される。

4.06 三回目で、シリーズ中最大規模の「クイン」(110メガトン)の爆発実験が、予定通り行われる。

4月15日 第二幸成丸、操業を終え築地に入る。検査で、船体から4000カウント、船員からも数百~千数百カウントが計測された。これは当時の基準上限の2,3倍に当たる。魚はそのまま処分された。

4.17 カウント100以上の放射能が確認されたマグロは不合格に認定されることになる。7万トンのマグロが放棄される。(一説では約486トン)

4.22 米国家安全保障会議の「作戦調整委員会」 (OCB)、「水爆への日本人の好ましくない態度を相殺するための米政府の行動リスト」を起草。事件のもみ消しを図る。

1.日本人患者の発病の原因は、放射能よりもむしろサンゴの塵の化学的影響とする。
2.放射線の影響を受けた日本の漁師が死んだ場合、病理解剖や死因の発表については日米共同で行う。
3.(そのような事態への)準備も含め、非常事態対策案を練る

4月26日 第4回目の核実験(ユニオン)が実行される。

4月 降雨中より放射能が検出されたとの報道

54年5月

5月5日 第5回目の核実験(ヤンキー)が実施される。

5.06 「打ち合わせ会」が第10回目の会合。第五福竜丸の他、第13光栄丸など17隻の被害船が実名であげられる。損害について米側に補償を求めることで合意。

5月09日 原水爆禁止署名運動の杉並協議会が発足し、署名運動が全国に拡大する。

5月14日 第6回目の核実験(ネクター)。一連の核実験は予定通り完了。

5月16日 全国でビキニ水爆実験の影響による放射能雨が計測される。

5月末 6回にわたる水爆実験が終了。

5月26日 調査船・俊鶻丸(しゅんこつ)が、水産庁顧問団から派遣された三宅泰雄ら科学者22人を乗せ、現場海域で第1次調査。ビキニ環礁150キロのところに最大汚染水域を発見。

海水の放射線量は7千カウントをこえ、水しぶきを浴びるだけでも危険という状態だった。プランクトンは1万カウント、魚はかつおの肝臓で4万8千 カウントと汚染されていた。汚染海水は、深さ100メートル、幅約10キロから100キロのベルト状になってゆっくり西方に流れていた。
ビキニ事件の内部被ばくと福島原発被災のこれから」(山下生寿)より

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俊鶻丸の研究者たち NHK静岡「海の放射能に立ち向かった日本人~ビキニ事件と俊鶻丸」より

54年6月

6.08 「打ち合わせ会」の第13回会合。水産庁が「水揚げマグロの検査で41隻の漁船が魚の廃棄処分を受けた」ことを報告する。またリン鉱石運搬船の「神通川丸」で放射能症が疑われるケースが発生し、大阪船員病院に入院したことも明らかにされる。

8.06 「打ち合わせ会」の第16回会合。被害船の数が100隻を超えたことが明らかにされる。「先に内払いを行った33隻以降、116隻の漁獲物を廃棄した漁船の損害…」と記されているが、「内払い」の方法、金額については不明。

9月23日 久保山愛吉さん(無線長)が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と言い遺して死亡。日本人医師団は死因を「放射能症」と発表。米政府は「放射線が直接の原因ではない」とし、謝罪せず(現在まで)。

直接死因は急性肝機能障害であった。同様の肝障害は他の乗組員17名にも発生した。その多くは注射や輸血などで医原性にウィルス感染したと考えられる。
乗組員23人の追跡調査では、半数以上が50死前後で若年死、その多くはガンであった。(正確な数字は確認中)

12月26日 鳩山内閣が成立。年内いっぱいでマグロの放射能検査を打ち切る。アメリカ原子力委員会の主張を受け入れたものとされる。

54年 この年映画「ゴジラ」が公開される。ゴジラは水爆実験が産んだ放射線を吐く怪物として設定される。

エード・メモアール: 水産庁や海上保安庁は放射能被害にあった船の被災状況を仔細に調査した。内容は船名、乗組員の数、 トン数、出港から帰港までの日付ごとの移動経路、人体・船体などの放射能測定値、漁獲物の放射能値など。これは外務省から「エード・メモアール」というレ ポートとして逐一アメリカ大使に渡されていた。

1955年

1月 「日本政府はアメリカ政府の責任を追及しない」確約を与え、慰謝料として、200万ドル(当時約7億2000万円)が支払われた。第五福竜丸被災者への「好意による見舞金」の他、廃棄したマグロ、魚価下落分の補償などに充てらたという。

見舞金は第五福竜丸だけに支払われ、一人当たり200万円に達した。他の漁船からのやっかみがあり、乗組員は仕事を離れざるを得なくなった。

8月 広島で第1回原水禁世界大会が開かれる。原水爆実験反対署名は3200万筆に及ぶ。

55年末 原水爆実験反対署名、全世界で6億7千万人に達する。ノーベル賞受賞らが連名で、ラッセル・アインシュタイン宣言を発表。

人類と核兵器の危機的な関係を直視し、東西の立場を超えて人類の生存の問題として共に核兵器廃絶に踏み出すことを訴える。

1956年

 旧厚生省、延べ556隻の漁船の被ばく状況調査を元に、「(第五)福竜丸以外には、特に放射能症を認められる事実のないことが明らかとなった」と通知。

5月 俊こつ丸による第2次調査。海水汚染は北赤道海域の面まで拡散。魚体内には1954年の水爆実験時の放射能が残留していた。

1957年 ロンゲラップ島に安全宣言が出される。住民の多くが食物摂取により重大な内部被曝を浴びる。

1958年

7月8日 アメリカ、マーシャル諸島で核実験。ビキニ南東1440キロで1リットル当たり毎分400カウント(マグロの廃棄基準は100カウント以上)の放射線を観測。

7月14日 海上保安庁測量船「拓洋」がビキニ西方でスコールに遭遇。雨水中には1リットル当たり毎分10万カウントの放射線を含んでいた。帰国後の血液検査で、乗組員の白血球数低下が見られた。

7月 この頃、室戸船籍の第八達美丸が被爆。

岡本清美さん(乗組員・故人): 皆ではえ縄を揚げていたら突然、大明かりになった。空を見ると赤い火というか、太陽のような丸い玉があった。1、2時間後にスコールが降った。(日時・場所は特定できず。岡本さんは54年にも被爆している)

1960年

8月 高知県幡多郡宿毛の藤井節弥さん(当時27歳)が「原爆症」を苦にして自殺。藤井さんは長崎の被爆者で漁船の乗組員としてビキニでも被爆。

藤井さんが遺した詩: じつと目を閉じ/我が遠きふるさとの磯辺/父母の面影を思い起こさむ/ただいたづらにそれのみ/いたづらにそれのみ/さざなみの泡立つ海へ歩みゆく/さながら自殺する如くにぞ

1962年

アメリカ、イギリスはビキニなど太平洋中西部で92回もの核実験を行った。その威力は、広島に落とされた原爆の六千数百発分に相当する。

1963年 大気圏内核実験が停止される。地下核実験などはその後も続く。またフランスは条約を無視し、66年にムルロア環礁で大気圏内核実験を実施。

1968年 ビキニ環礁、放射能除去作業の結果帰島可能となったと判断。旧島民140人の帰島が許される。10年後に放射線障害が多発したため再離島。住民は食糧難のもと、アメリカ政府からの生活保障費で生活を続けている。

1971年 「被爆26周年原水禁世界大会」(原水禁系)に2人のミクロネシア代表が参加。マーシャル諸島の島民被爆が明らかになる。

1976年

東京都江東区の「夢の島」で廃船を待つ第五福竜丸が発見される。関係者の尽力により、第五福竜丸展示館に永久展示されることになる。

1977年

2月 第二幸成丸の乗組員だった寺尾良一さんが吐血した後急死。40歳前後と推定される。(食道)静脈瘤の破裂の診断。(* 食道静脈瘤破裂は肝硬変末期の合併症)

1985年

4月 幡多地域の教師たち(幡多高校教師の山下正寿さんら)が戦後40年の節目として、県内在住の広島、長崎被爆者の調査。この過程で。水爆実験の被爆者の存在に突き当たる。

発掘のきっかけは、藤井節弥さんの母からの聞き取りだった。母は幡多郡大方町に住んでいた。(高知新聞)

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藤井節弥さんの母の証言に耳を傾ける高校教師ら(1985年、宿毛市内)

7月 「幡多高校生ゼミナール」ビキニで被ばくした乗組員300人を聞き取り調査。

当時の室戸小型船主組合長だった崎山秀雄さんの証言が口火になり、次々に証言が集まった。(高知新聞)
崎山さんは第二幸成丸の船長としてビキニで核実験に遭遇した人。

9月 「幡多高校生ゼミナール」の報告を受けて、高知県ビキニ被災調査団が結成される。森清一郎さんを団長に、医師や大学研究者など約50人が参加する。

30年を経過して多くの人が死亡。第2幸成丸は20人中生存者7名、新生丸は19人の乗組員が保険登録されており、死亡者は14人、生存者2人、不明者3人。第5海福丸は18人中9人が病死(ガン5人)。

1985年 いったん島に戻ったロンゲラップ島民に放射能障害が多発。島民は200km離れたクワジェレン環礁のメジャット島に脱出する。

1986年 高知県ビキニ被災調査団が、自主的な健康診断を実施。

1986年 「マーシャル諸島共和国政府」が独立。米国との間に自由連合協定を締結。第三者組織による放射能の影響調査を開始する。95年に報告書が提出されるが、米国政府はこれを承認せず。

1987年

2月 調査団は高知市で「ビキニ水爆実験被災シンポジウム・高知」を開催。約1年半かけて追跡した船員の健康実態を報告。

消息が判明した本県の漁船員187人のうち40人が病死。その約2割が40―60代の「若い死」だった。被ばく者がなりやすい癌、心臓まひ、白血病で亡くなった人は24人もいた。(高知新聞)

高知の調査を知った沖縄の高校教師らが、独自の調査活動を開始。

沖縄の2隻のマグロ船の乗組員68人を追跡。うち、17人が40―50代で死亡していた。死因が分かったのは12人。11人がガンだった。

1998年 国際原子力機関(IAEA)、マーシャル諸島共和国政府の依頼を受け放射能調査。本環礁に定住しそこで得られる食料を摂ると年間15mSvに達すると推定され「早くとも2052年まで永住には適さない」と結論。

2004年 放医研の明石らが第五福竜丸被爆者の追跡調査の結果を発表。

同年までに12名が死亡。肝癌6名、肝硬変2名、肝線維症1名、大腸癌1名、心不全1名、交通事故1名。肝疾患が多くを占めるのが特徴。
生存者の多くも肝機能障害があり、肝炎ウィルス検査では、A, B, C型とも陽性率が異常に高かった。

2010年 ビキニ環礁が「負の世界遺産」に指定される。ミクロネシア連邦は憲法前文に「世界はひとつの島なのだ」を掲げる。

2013年

3月 外務省が資料の一部を開示。国内向けには「ない」としながら、米国に渡していたことが明らかになる。

2014年

9月 厚生労働省からビキニで被爆した他の船体や船員にかんする文書が見つかる。市民団体の情報公開請求に対し、厚生労働省が開示。

第五福竜丸以外に473隻が検査を受けた。毎分100カウント以上(最高988カウント)の放射線が乗組員から検出された船は10隻あった。

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厚労省開示文書

2015年

2月 水産庁、被爆漁船に関する文書を発見し提出。水産庁はこれまで日本漁船の被爆記録の存在を否定し続けてきた。

2016年

2月 1954年のビキニなどの核実験で被爆した元船員らが、「労災」として船員保険の適用を求め、全国健康保険協会高知支部に集団申請する。

すでに第五福竜丸の船員23名には船員保険が適用されている。