この二人をめぐる面白いエピソードがある。
リャプノフは田舎(ニジニー・ノヴゴルド)の出で、父が天文学者、兄が世界的に有名な数学者だ。完全に理数系の血を引いている。対してリャードフはペテルブルク生まれの街っ子。祖父と父親が指揮者という音楽一家だ。
リャプノフの写真を見ればわかるようにコチコチの堅物だ。リャードフはエスケープの名人、ペテルブルク音楽院を一度は放校になってるほどだ。

リャプノフはニコライ・ルビンステインの引きでモスクワ音楽院に進学し、チャイコフスキーの指導も受けている。ここで純西欧風の音楽理論で教育を受けたが、逆に民族風の音楽にはまってしまい、バラキレフの指導を受けるためにペテルブルクに移動する。リャードフはそのころペテルブルクの音楽院で相変わらずチンタラとやっていた。
二人は同じ校舎の中で生活するようになる。しかしいわば水と油だからそう気があうはずはないと思う。
ところがこの二人が1993年に突然長い旅を共にすることになるのだから不思議なものである。
そのとき、帝室地理協会という団体がバラキレフにヴォルガ地方の民謡採集を命じたのである。まぁ政治力に長けたバラキレフのことだから、協会の幹部をたきつけて調査費をせしめたのであろう。
このころはチャイコフスキーの名声がピークに達していたころだ。ペテルブルクのリムスキー・コルサコフもすっかりその気風に染まっている。
民族派の先頭を走り続けてきたバラキレフには面白くない時代だ。そこで民謡でも発掘してそれで巻き返しを図ろうという魂胆だったのではないだろうか。
民族派にあこがれてチャイコフスキーのところからバラキレフの下にはせ参じたリャプノフは当然喜んでこのフィールドワークに参加したことだろう。
ところがそこに、どこからうわさを聞いたものかリャードフが紛れ込んできた。親分のリムスキー・コルサコフも、バラキレフの調査とあれば、少なくとも表向きは反対する理由はない。どうせ遊んでいるようなリャードフのことだから、勝手にすればという感じで見ていたのではないだろうか。とくにこの時期、リャードフは完全なスランプ状態に陥っていた。92年に発表したのは作品29のピアノ小品ただひとつである。93年も数曲にとどまる。その中のひとつが「音楽の玉手箱」なのだ。これでリャ-ドフの首は皮1枚でつながったのだ。
ということで、バラキレフ、リャブノフ、リャードフの奇妙な三人連れがヴォルガ地方一帯をうろうろすることになる。
どういう旅だったのかは記載がないので分からない。ただこのたびの後、二人はともに民族色の強い音楽を書くようになったことは確かだ(特にリャードフ)
旅の結果、300の民謡が採集され、それらは97年に協会から刊行された。リャプノフはこの中から30曲を歌曲として発表している。
なかなか文献がないので想像するほかないが、ぐーたらな街っ子のリャードフがどのくらい足手まといになったかは想像するに余りある。