前の記事が未完になってしまったのは、布告第1号をめぐる事実経過が曖昧なためである。

とくに布告第1号が発表されたのか、未発表・未執行のまま終わってしまったのかという問題。マッカーサー、重光葵の関係をめぐる事実が曖昧なので、少し調べることにした。


ネットで当たると、まずウィキペディアの「三布告」の項目が上がってくる。

内容を少し紹介しておく。

最初の定義のところから、記述があいまいだが、

1945年(昭和20年)9月2日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から出された日本占領政策の最初の布告である。日本国民に直接布告される予定であったもので、GHQによって、占領下の日本に軍政を直接敷くことを目的とした…

までは良いのだが、そのあとが良く分からない。混乱したことだけは間違いなさそう。

分からないままに本文に進む。ここも事実がとりとめなく記載されており、時系列で整理しながら進むことにする。


1944年12月 それまで関係官庁で検討されていた日本占領方針が、国務・陸軍・海軍調整委員会(SWNCC)で統合されることになる。

5.07 太平洋戦線の陸軍部隊の総司令官ダグラス・マッカーサーが、将来の日本における占領統治の最高責任者に決定する。

8.07 「ブラックリスト作戦」案が最終決定される。「日本の突然の崩壊や降伏に備え」たものとされる。(誰によって?どのレベルで?)

しかし終戦間際の時点で、アメリカ政府自体が占領方針に関しては確定していなかった。

終戦からマッカーサー到着までの交渉。

日本政府の渉外委員会(有末精三委員長)が米国との交渉にあたった。大蔵省は委員会を通じて日本円の引き続く使用を要請した。

というところまでが、混乱の背景の説明。以後は9月2日以降の経過。

9月2日、降伏文書調印式。

午後4時過ぎ リチャード・マーシャル副参謀長(占領政策担当)、終戦連絡事務局横浜事務局に対し、1.連合国軍がいずれは東京に進駐すること、2.翌日午前10時に「三布告」を発表すること、を通告。(この時点でGHQは横浜にあった)

深夜 横浜事務局からの報告を受けた内閣は、岡崎勝男外務官を急派。マーシャルとの交渉に入る。交渉の結果、とりあえず3日の「三布告」発表は延期となる。(マーシャルではなく、その上級にあたるサザランド参謀長という文献もある)

9月3日

午前10時半 重光外相がGHQに入りマッカーサーとの会談を開始する。会談の内容説明は省略。結論としては、日本政府の意向を受け布告発令は中止され、軍政の施行も中止された。


つまり、「三布告」は反故にされたということであり、それはマッカーサーの判断(独断的)であったということだ。

「布告の真意」のくだりは、「解釈」が目立つため省略。

「三布告」がどのレベルで作成されたもので、マッカーサーが反故にして良い性格のものであったのか、この辺が分からない。もう少し遡って検討しなければならないだろう。

そもそも、「三布告」のセットが存在したのかどうかもはっきりしない。他の文献では布告第1号とされ、その内容は軍政施行のみとされている。

以上の記述はおおうね下記2著に依拠しているもののようである。

河原匡喜 『マッカーサーが来た日 8月15日からの20日間』 光人社NF文庫、2005年

増田弘 『マッカーサー フィリピン統治から日本占領へ』 中公新書、2009年