年表作成に当たり、内山書店の「内山完造・内山書店略年譜」を参考にさせていただきました。


1885年(明治18) 内山、岡山県に生まれる。高等小学校を中退、京都・大阪で丁稚奉公を勤める。以後27歳まで商家の店員として働く。

1913年(大正2) キリスト教に入信し、牧師の紹介で「大学目薬」の営業・販売員として上海に渡る(28歳)。

1917年(大正6) 妻の内山美喜、キリスト教関係の本を日本から輸入するため、自宅の庭先に小店を開く。

1920年(大正9) 上海YMCAの夏期講座を開設。世話役となる。内地から毎年知名人を招く。

1921年(大正10) 中国共産党が上海で第1回党大会を開催。この時の党員数は全国で50名余。

1924年(大正13) 妻の始めた書店を拡大し、自宅の向かいに「内山書店」を開く。書店は文化人のサロンとして日中文化人交流の窓口となる。「文芸漫談会」が生まれ機関誌『万華鏡』を発行する。

1925年(大正14) 上海でゼネスト。日系紡績工場で日本人職員が中国人労働者を射殺。上海総工会の呼びかけたゼネストに20万人が参加。都市機能は1ヶ月間麻痺状態に陥る。

1926年(昭和1年) この年、内山は41歳となる。(非常に数えやすい)

1927年(昭和2) 共産党の指導する総工会が蜂起に成功。軍閥政権を追い出す。この後上海に入った蒋介石軍は「上海特別市臨時政府」を壊滅に追い込む。

1927年(昭和2) 広東から移った魯迅が内山書店を訪問。10年後の魯迅の死まで交流が続く。

魯迅は「蒋介石の乱暴にとても堪えられないで脱出して」来た。魯迅は上海で「師弟として同行しておった許広平女史と遂に結婚」した。
魯迅さんは私のところへ、ほとんど毎日来てました。…午前中勉強して、大体二時か三時ごろ…ぼくのところへ寄る。しばらく漫談して帰っていくわけです。…「魯迅さん」(青空文庫)より

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魯迅と内山完造(1933年夏)

1928年(昭和3) 内山、日本亡命を図る郭沫若を援助。

1928年 蒋介石の国民党軍が北京の軍閥政府を倒し中国統一を達成。日本は山東出兵、張作霖爆殺などで干渉。

この後、上海は国民党政府の事実上の首都として驚異的な発展を遂げる。人口は300万人(東京・大阪は200万人)、消費電力も東京を上回る。バンドには高層建築が林立。女性は摩登(モダン)な旗袍(チャイナドレス)で着飾る。活字、映画文化などが花開き、繁華街は電飾で不夜城と化した。(石川)

1929年 施高塔(スコット)路(後に「北四川路と改称)底に「内山書店」を移転する。

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北四川路
 1930年代上海の四川路

1930年(昭和5) 上海で「左翼作家連盟」(左聯)が結成される。魯迅も中心幹部として非妥協的な論争を展開。

1930年(昭和5) 左翼の進出を恐れる蒋介石軍は上海で活動家弾圧を本格化する。上海市内の共産党組織はほぼ壊滅。

1931年(昭和6) 国民党特務による左連作家6人の虐殺事件が発生。内山は危険の迫った魯迅を庇護(内山は魯迅を四度匿ったとされる

魯迅に逮捕状が出たので、ぼくは心配して…無理から匿れさせた。花園荘という…アパート…の小使部屋をあけて魯迅親子三人をかくしたのです(「魯迅さん」)

1931年(昭和6) 満州事変勃発。日本国内に関東軍支持の大合唱。中国では日本非難の大合唱。

1931年 宋慶齢、魯迅、蔡元培らが中国民権保障同盟(以下民権同盟)を結成。愛国民主抗日と国共合作支持の立場を鮮明にする。国民党の特務統治に反対し政治犯の釈放や言論の自由を求める。

1932年(昭和7) 第1次上海事変勃発。日本人僧侶への襲撃事件を口実にして、日本軍陸戦隊が上海付近を軍事占領する。関東軍の板垣大佐が起こした謀略事件。

1932年 内山は魯迅親子・周建人夫妻を庇護する。この頃から日中双方の側から"スパイ"呼ばわりされるようになる。

内山は魯迅を日本文士に売り込むことで、身の安全を確保しようとしたと思われる。内山の紹介で魯迅と面識をえた日本人は、長谷川如是閑、金子光晴、室伏高信、鈴木大拙、横光利一、林芙美子、武者小路実篤、岩波茂雄ら多数にのぼる。

1933年(昭和8) 民権同盟幹部の楊杏仏、蒋介石の私兵集団により暗殺される。同盟は活動停止に追い込まれる。

1934年(昭和9) 宋慶令ら2000人の著名人が「中国人民対日作戦基本綱領」発表。すべての中国人民が武装蜂起して、日本帝国主義と闘うことを訴える。

魯迅と完造
 在千爱里避难与内山完造等时合影 1934年8月29日摄于上海内山完造寓所前

1935年(昭和10) 内山、最初の著書「生ける支那の姿」を発表。魯迅が序文を付す。

1935年(昭和10) 梅津・何応欣協定。国民党は政府機関・軍の華北撤退に合意。

1936年(昭和11) 西安事件。張学良が蒋介石を監禁する。

1936年(昭和11) モスクワの共産党指導部、中国左翼作家連盟の解散と中国文芸家協会の結成を指示。これに対し上海の魯迅らは「中国文芸工作者宣言」を発し、「民族革命戦争の大衆文学」のスローガンを提起。上海文化界は激しい論戦に巻き込まれる。

1936年(昭和11) 魯迅が死去。宋慶齢、蔡元培、スメドレーらとともに内山完造も委員に選ばる。埋葬式で、完造は追悼演説を行なう(式辞は蔡元培
大変な苦痛で、籐の寝椅子にもたれて、それでもまだ煙草をもっている。呼吸をみていると吐くばかりで吸う力がない。
石井政吉というドクターが…すぐに見に行ってくれた。そして酸素吸入をし…ながら、十九日の夜明けまでもって、亡くなったのです。(これは心臓喘息であろう)

1936年 上海の文芸界は、魯迅の死を機に「団結と自由の宣言」を出し、統一を実現する。

1937年(昭和12) 盧溝橋事件、第二次上海事変が勃発。南京大虐殺事件が発生。国民政府は武漢に移る。蒋介石、第二次国共合作に踏み切る。日本に避難した内山は東京で4日間の拘束を受ける。

1938年(昭和13) 日本軍、3ヶ月にわたる徐州作戦。武漢三鎮占領。共同租界がある上海に難民が殺到する。

1938年(昭和13) 日中全面戦争下にもかかわらず内山書店は発展、上海の各所に支店を開く。

虹口(ホンキュー): 黄浦江沿いにある上海大厦(旧ブロードウェイマンション)から北四川路沿いに北に上って魯迅公園(旧虹口公園)の辺りまでの一帯を指す。一時は10万人を超える日本人が住んでいたという。

1939年 中国軍、南支で春季反撃作戦。戦線は膠着状態に入る。アメリカは日米通商航海条約を破棄。中国支援と対日経済制裁を強める。

1939年(昭和14) ドイツ、対ソ不可侵条約締結。ポーランドに侵攻。英仏、ドイツに宣戦。

1940年(昭和15) 八路軍が、山西から河北にかけて一斉攻撃。日本軍は報復として三光作戦を展開。住民を大量虐殺。

1941年(昭和16) 太平洋戦争勃発。直後に魯迅未亡人許広平女史が上海日本憲兵隊本部に連行される。内山は救出に尽力。

1945年(昭和20) 日本の敗戦、内山書店は接収される。(60歳)

1947年(昭和22) 内山は中国永住を決断。自宅で古本屋を開業。まもなく国民党により強制帰国命令。

1948年(昭和23) 1年半にわたり、北海道から九州までの"中国漫談全国行脚"を行なう。

1949年(昭和24) 中華人民共和国が成立。

1950年 新たに設立された日中友好協会の理事長に就任(会長は松本治一郎)

1951年(昭和26) サンフランシスコ条約締結。台湾政府を正当と認めたことから日中関係は戦争未終結・国交未回復が続く。内山は日中友好協会理事長として単独講和反対運動を推進。

1953年(昭和28) 在華邦人引揚げ打合せ代表団の一員として渡中。共同コミュニケ調印により、日本人3万の帰国の道が開かれる。

1959年 地方巡回講演の激務がたたり病床に伏す。北京へ病気療養に赴くが、レセプションの最中に脳溢血のため死亡。外国人に対しては異例の国葬級の儀式が、中国対外文化協会によって行われた(吉備路文学館


経過を見れば分かるように、内山完造は明治の気骨を背負った「本屋のおやじ」であり、例えは悪いかもしれないが、「一代の侠客」だ。基本は「窮鳥懐に入らずんば」の世界だ。だから魯迅は心許したのだろう。
キリスト教がバックボーンにあるとはいえ、あまり思想的なものを持ち合わせているとは思えない。日中友好協会の理事長を勤めるには少々荷が勝ちすぎていると思う。
そのことを考えると、その任務をあえて引き受けて、60すぎの老体に鞭打って全国を行脚する姿には頭がさがる。そこには何かしら柳原白蓮の姿と重なるところがある。
…なにか足りないなと思ったら、上海のミニ状況が足りないようだ。
明日その辺りを補充しようと思う。