やっと買ったCDを一通り聴き終えたので、この間たまった仕事に再着手する。

と言っても別に義務というわけではなく、あちこちに飛んで行くのが悪い癖だ。

基本的には飽きっぽい性格なので、せいぜい2,3日で片付くような話題にばかり偏ってしまう。

今回もご多分に漏れず、日中友好協会のパンフレットを読み始めたら、内山完造のことが気になり始めた。今回はじめて知ったのだが、内山は日中友好協会の初代理事長だったそうだ。

内山といえば、上海の内山書店の店主である。あのすべてが暗黒の時代に何か意味のある活動をしていた数少ない日本人の一人だ。

ということは初期の日中友好協会の活動には内山の“好み”が反映されている可能性がある。

全国レベルでの友好協会の結成が1950年10月、中華人民共和国の成立1周年記念日である。

それは朝鮮戦争がもっとも激しく戦われていた頃であり、日本共産党の活動が禁止され、新たな闘争の方向をめぐり大混乱に陥っていた時期である。

だから日中友好運動の北海道での展開は、3年後の53年と随分遅れる。しかも道段階での組織が遅れ、中央直属の形で小樽支部がまず結成される。(ほぼ同時期から札幌支部も活動していたと思われる)

その間、内山は北海道の組織結成を目指し、二度にわたり講演活動を展開している。講演会の回数は総計34ヶ所に及んでいる。ついで54年には大山郁夫夫妻が22ヶ所で講演している。3年間に56回も全土各地で講演すれば大抵の組織はできるでしょう。

もちろん組織も裏で動いたとは思うが、こういう無党派知識人が初期の日中友好運動を引っ張っていったことは念頭に置いておいて良いだろうと思う。

北海道の友好運動はほとんどが強制労働の犠牲者の供養だ。いわば祈り(贖罪をふくめて)の活動として友好運動はスタートしている。

最初の大掛かりな行事は「中国人俘虜殉難者慰霊」であった。これには東本願寺が全面的に動いている。

以上のことを念頭に置いたうえで、日中友好運動に至る内山完造の歩みを追ってみよう。