ということで、大島さんには申し訳ないが、「北海道から沖縄まで2万3千人余りが交流」という「自主的な農民団体」については、存在したという確かな証拠は見いだせなかった。

わずかに、類似のものとして遠州森町のある方が静岡新聞を典拠に(?)書いたものだけがある。

農業研究雑誌「農談」は、日本で最大の2万2千人の会員を擁し、17万部を発行した。

しかし、この17万部はにわかに信じがたい。ひょっとすると二宮尊徳を奉ずる「報徳会」の数字と混同しているのではないだろうか。


それはさておき、明治の前半における農村の一大学習運動は間違いなく存在したし、それがかなりの程度まで「下からの運動」であったことも認めなければならない。

とりわけ、「老農」と呼ばれた人々の生きざまは大変に魅力的であり、それを各地で熱狂的に迎え入れた草莽の民の巨大なエネルギーにも感嘆する。


この運動は幕藩体制の崩壊と全国一区の情報開放を背景にして起きた。まだ自動車も鉄道網もない時代に、東京に農民が集まって情報を交換し、地方の農業技術水準が一挙に底上げし平準化された。


農民にとって、開国とは外国に向けての解放ではなく、日本全国に向けての解放だった。「老農」はたんなる技術伝達者ではなく、農民の持つべき新たな論理と倫理を告げるみずからのヘラルドでもあった。


それは農業技術を媒介とした文化運動でもあった。「全国は一つ、農民は仲間」なのだ。多分それは「自分のために、そして人のために」という自由民権の思想運動とも重なっていただろう。

「老農」が全国に広げた教えは、江戸時代300年の幕藩と身分の桎梏を解き放ち、一種の「農本主義」と「勤労思想」を日本人の心に叩き込んだのではないだろうか。


たしかにそれは富農を中心とした運動だった。明治政府の音頭取りで始められた官製運動であったことも間違いない。やがて自営農が資本の論理により階級分解し、地主制度に変わっていくと、運動も変質・衰退し反動側に絡め取られていった。


にもかかわらず、日本人の大部分を占める農民層が、封建思想のしがらみから脱出した意義は革命的である。

その性格上、科学的で進歩的で合理的な思想は、武士道とは違うもう一つの日本人のバックボーンとして、とくに実業・モノ作りの世界に引き継がれてきたのではないか。


もっと積極的に引き出すべき歴史であることは間違いないだろう。