キタラのコンサート会場で、アレンスキーの評伝を販売していた。

高橋さんという方が書いたもので、ブックレット・サイズで650円。日本語で唯一の評伝だという。

それを昼から読み始めて、一気に読み終えた。なかなかに中身の濃い、力の入った労作である。

1ヶ月ほど前に5人組とチャイコフスキーの織りなす歴史について勉強したばかりで、それと噛み合わせると人脈が非常によく分かる。

1.西欧音楽への憧憬

2.国内音楽家の反発

3.「国内音楽家」の実態

4.5人組のペテルブルク制圧

5.チャイコフスキーは何をしていたか

6.モスクワ音楽院という微妙な立ち位置

7.ピアノ協奏曲第1番の意義

8.国内で不動の地位を獲得したチャイコフスキー

見た目には「正」のアントン・ルビンシュテイン、「反」のバラキレフと5人組、「合」のチャイコフスキーというきわめてヘーゲル弁証法的な流れだが、なにせ人間のやることだからそう綺麗には行かない。

ペテルブルク対モスクワという対立、チャイコフスキーとリムスキー・コルサコフの対立という図式のもとに世紀末のロシア音楽界が展開していく。

この対立は初期のアントン対バラキレフの対立のようにイデオロギー的なものではない。リムスキー・コルサコフはチャイコフスキーを尊敬していたし、チャイコフスキーもロシア民族色をしっかりと打ち出すことでは引けを取るものではなかった。

ただし、チャイコフスキーの下でモスクワ音楽院を管理するタネーエフは、ペテルブルクに対抗するべく西欧音楽理論の徹底をもとめていたようで、この辺が震源地かもしれない。

アレンスキーのモスクワ行き

こういう状況のもとでアレンスキーのモスクワ行きが実現するのだが、この話は20年前にチャイコフスキーがモスクワに赴いた話と瓜二つなのである。

アレンスキーはペテルブルク音楽院の作曲科を首席で卒業した。院長のリムスキー・コルサコフの覚えもきわめてめでたかったようである。

そのアレンスキーをモスクワのタネーエフが招請した。そして文字通り下にも置かぬ歓待ぶりを示した。この話、ニコライ・ルビンシュテインがチャイコフスキーをヘッドハンティングした話と完全にダブる。ひょっとすると伝記作者が作り上げてるかもしれない。

もちろんモスクワ音楽院のカリスマであるチャイコフスキーもアレンスキーを大歓迎したという。かつての自分の姿をダブらせていたかもしれない。

一方、裏切られた形のリムスキー・コルサコフはアレンスキーに対してシニカルな態度を貫いたという。

アレンスキーはやはりつなぎ役であろう

ということで、鳴り物入りでモスクワ入りしたアレンスキーではあったが、その後小曲や室内楽で素晴らしい物は残しても、ビッグヒットを飛ばすには至らず、一生を終えている。

YouTubeでピアノ協奏曲や交響曲が聞けるが、やはり構成力に乏しいところがある。トルストイやドストエフスキーのあの辟易するようなスタミナとは対局に位置する人である。

小説家というよりはエッセイストなのだろう。

彼の最大の功績はラフマニノフを作り上げたところにあるらしい。「あーそうですか」と、とりあえずはそう言うほかない。なぜかというと、私もラフマニノフの大仰ぶりにいささか辟易する人間の一人だからである。