基本的には、前掲記事をひっくり返すようなものはない。(実は、その前に3回ひっくり返されて、そのたびに記事をボツにしている)

主要ではないが、矛盾する点をいくつか上げておかなければならない。

1.「新日本文学」1950年2月号の座談会記録

不勉強のため、こういう記録があった事自体が初耳で、伊藤さんはこれを目下のスタンダードとしている。

ただ私の参照した倉田稔さんの論文もこの記録を参照しているので、大きな齟齬はない。それに窪川稲子、原泉、江口、小阪らの証言はその後発表されたものが多いので、「座談会」と矛盾しても、その都度個別に判断するしかない。

貴司山治の動きは、個別に取り上げなかったが、新聞社と連絡をとって笹本を動かしているのが貴司だということが初めて分かった。また築地小劇場に行って各所に連絡したのは、原泉というより貴司の差金だったのかもしれない。

要するに築地班チーフが貴司、馬橋班チーフが江口という二人の非党員で現場を仕切ったことになる。これに対し、初動で活躍した大宅、青柳の名はその後出てこない。

2.写真の人物について

① 図像2がまず撮られ、ついで人を入れ替えて図像1が撮られた。

② 図像2は写真を撮るからといって、遺体と母親セキさんを中心に自然に人々が蝟集してきた生々しい雰囲気が生きている。

③ そのあと人々の配置を入れ替え、怒りと抗議の意志を示すポーズをとった関係者が図像1である。

と、伊藤さんは読みこむ。③はちょっと言いすぎかもしれない、両方を比べると、親族筋と江口さんが消えてその隙間に後ろの連中がせり出したというふうに見えるからだ。とすると鹿地亘がKYだが。

問題は人物の比定である。

まずは窪川稲子だ。窪川稲子に居られると困るのである。

fig1

fig1_2

これが、伊藤さんによる比定である。(多分先人が行なったものだろう)

fig2

fig2_2

私はこれは稲子ではないと思う。稲子は写真を見てこれは自分と思い込んだ。だから帰ったのは午前2時だったと時間合わせをしているのではないか。

帰りも一緒だったのなら、なぜそこに中條や壺井がいないのか。踏切の向こうで貴司らと行き合ったのなら、どうして一緒に写真に映れるのか。

と、一応疑問を投げかけておく。

ついでにタキさんの件だが、私は田口タキと比定されている女性は多喜二の姉ではないかと思う。そして後ろのちょび髭がその旦那ではないか。

小林家の養女にはなったものの、家出してしまった人間が、通夜の席でこの位置に座るか? という当然の疑問がある。セキさんが座らせたのだとすれば、それはそれであるが…

「女3人が来て激しく泣いた」というのは江口の述懐であるが、江口はふじ子が来るなり泣き叫んだところは見ていない可能性がある。

これについて記載したのは小坂である。しかし小坂は当然の事ながら接吻シーンは見ていない。

つまり江口は隣室にいて、ふじ子の泣き叫ぶシーンを三人の女が泣いたと勘違いしていたかもしれない。これ以上の当て推量は意味ないが…

それにしても鹿地亘が目障りだ。