「昭和前期の図像学」の紹介

もうやめようと思ったら、また文献が出てきてしまった。 

【資料紹介】 昭和前期の図像学 ガラス乾板から浮かび上がる群像

という論文。

2015年5月20日

占領開拓期文化研究会機関誌「フェンスレス オンライン版」 第 3 号  に掲載されている。

著者は伊藤純さん。あの写真の発見者である。

題名が題名だけに、グーグルではなかなか引っかかってこない。しかし論議の焦点にもろにかぶっているので、触れない訳にはいかない。

以下、関連する部分を抜き出していく。

Ⅰ 1933年2月21日深夜の〝小林多喜二〟

A ガラス乾板の発見

数十枚のガラス乾板(大名刺判〔6.5cm × 9cm〕その他)が、貴司山治の遺品の中から発見された。デジタル化してポジ像に変換してみると、いくつか、注目すべき画像が検出された。

小林多喜二虐殺直後の写真はいつ誰によって、どのような状況下で撮影されたものか記載されていない。

今回見出されたガラス乾板の中に、この写真のネガが発見された。さらにもう一枚、手ぶれと露出ムラの激しいガラス乾板も見出された。

この事実は、「新日本文学」1950年2月号の座談会記録と整合する。

(そこでは)記憶の錯誤や食い違いがいくつか現れてきているが、総体として虐殺直後の事態の推移がかなりよく復元されている。

B 座談会による事実経過

時事新報の記者だった笹本寅(つよし)が、新聞カメラマン(前川)を連れて関係者をフォローし事態の把握に重要な役割を果たす。

多喜二の遺体が引き取られ馬橋の自宅に安置されたのが二十一日午後十時頃とされている。

安置直後、医師安田徳太郎が詳細な検屍を行う。その時、屍体の外況が写真撮影されており、この写真も広く流布しているが、撮影の背景はやはりほとんど説明されていない。

立野信之は「笹本から屍体の写真をもらった」と発言している。笹本(の指示を受けた前田カメラマン)は二十一日深夜、まだ官憲の張り込みが甘かった時点で、安田医師の検屍に居合わせて遺体を撮影したことになる。

同じ座談会で、江口渙は、田口タキ、小林幸と、もう一人の女性が、遺体の「右手の枕許にずらりと一列に坐つて…一斉にワーッと声を挙げて泣いた」と陳述した。

これに対し貴司は「……その晩僕がとった写真があるが、女の人はおらんよ。」と発言している。

これについて伊藤さんは下記のごとく推測している。

江口が物語った三人の女性のエピソードはおそらく、貴司や千田がデスマスク作成の手配のために遅れて馬橋に帰ってきた、それより以前の時間に起こったことであろう。

C 貴司のうごき

伊藤さんは同じ座談会の記事から騎士の動きを抜き出している。

貴司は二十一日夕刻、夕刊報道で事態を知った。

まず時事新報に笹本寅を訪ねてフォローを依頼した。笹本は新聞記者で警察の警戒下でも比較的行動しやすいと考えたと思われる。

その後、貴司は築地警察署、前田医院、築地小劇場などを経巡って、集まった人々と事態の対応にあたった。

貴司は築地小劇場で原泉とともにふじ子に対応した。

原泉や貴司など居合わせた人々が、「多喜二の妻」などと名乗っていると警察にどんな危害を加えられるかわからないので、何とかなだめて馬橋の小林宅にとりあえず赴かせた。

おそらく直接対応したのが原泉で、相談を受けて貴司が新聞社(時事新報)に手配したのだろう。

その後貴司は千田是也などとデスマスク採取の準備のために別行動をとり、深夜に至って馬橋にたどりついた。

D 画像について

大名刺判のカメラはジャバラのついた大きなカメラで、三脚を使うのが普通である。当時の感度の低い乾板では相当の長時間露出が必要となる。

この二枚の写真に関しては、著しいライティングの偏りや、人物に強い影が出ていることなどから閃光電球(フラッシュバルブ)が用いられていると想像される。

図像2がまず撮られ、ついで人を入れ替えて図像1が撮られた。

図像2は写真を撮るからといって、遺体と母親セキさんを中心に自然に人々が蝟集してきた生々しい雰囲気が生きている。

そのあと人々の配置を入れ替え、怒りと抗議の意志を示すポーズをとった関係者が図像1である。

後は、通夜の場面と直接関係ないので省略。

注(5)

伊藤ふじ子: 「妻だ」と名乗って築地小劇場と馬橋の小林宅に現れ、壮絶な別離を演じていずこかへ消えた。

前記「座談会」での貴司、原、壺井栄の発言、ことに原の言葉はそれが誰であったか分かっていたと思われる文言も含まれている。(座談会の時点で伊藤ふじ子が再婚し平穏な生活を送っていることがわかっていたので、あいまいな言及になったと思われる)

占領開拓期文化研究会 senryokaitakuki.com