ふじ子はいつ来ていつ去ったのか

ついに見つけた、空白の1時間

これまでどうにもこうにも嵌めようのなかったジグゾーパズルのピースが、原泉と窪川稲子の証言でかなり見え始めた。

1.原泉の斡旋

原泉は次のように語っている。

築地小劇場で気をもんでいる原泉のところへ、一人の若い女性が近付いてきた。 「わたしは小林の女房です」 とその女性は言った。
原泉には見覚えがあった。左翼劇場に研究生と して在籍していた伊藤ふじ子であった。
原は 「シーツ」 と指で唇をおさえ、「あんたが女房だなどと言ったらどういう ことになると思うの」 と精いっぱいの思いで話した。
伊藤は「あの人に どう しても一目会いたい」 と言った。ちょ う ど取材のためどこかの新聞記者が車で来た。
「むこう'へ行って、なにもいわないでお別れしてらっしゃい」 と、原はふじ子に言い、新聞記者には、「すまないけどこの人を連れて行ってほしい」 と馬橋の小林家を教えた。

これは想像だが、ふじ子は多喜二死亡のニュースを聞いて、矢も盾もたまらず築地署に向かったのだろう。と言っても見物人の一人でしかなかったが。

そして目前で原泉が警察と激しく殺り合うさまを目撃した。やがて弁護士や医者も来て交渉の主役が移ると、原泉はその場を離れ、築地小劇場に戻っていった。

「何たる幸運!」

ふじ子は原と面識があった。彼女自身が新劇の俳優として舞台に立ったこともあり、それは原の知るところでもあった。

ふじ子はおそらく築地小劇場に戻る原泉の後を追いかけていったのだろう。そして必死に声をかけた。中身はきわめて直截である。

原は勘の良い人らしく、一瞬で事情を飲み込んだ。そしてとるべき態度を指示したうえで、ツテを使って小林宅へと送り込んだのである。そしてなおいくつかの連絡を続けた後、みずからも小林宅に向かうことになる。

こうしてふじ子は第1.5陣として小林家に到着した。

第一陣というのは寝台車に乗った母セキ、自宅で待機していた三吾と多喜二の姉、タクシーで寝台車を追った江口と安田医師ら、彼らに同行したかもしれない中条、佐多稲子、壺井栄ら。独自のルートでほぼ同時に小林宅に入った小坂夫婦である。

第二陣は、築地署から向かった貴司山治ら、石膏を買うのに手間取った築地小劇場・美術家のグループ、そして連絡を終えた原泉である。彼らが到着したのは12時過ぎと思われる。

その間に、同盟関係者以外の報道陣が独自に車で到着していた。その中にふじ子もいたという前後関係になる。

ふじ子が着くなり遺体に抱きついたというのは先着の第1陣が見た状況だ。小坂は度肝を抜かれ、セキは鼻白んだ。佐多、中条、壷井が見ているかどうかは定かではない。

2.なぜ江口とふじ子の二人きりになったのか

遺体は到着後ただちに検案され、その後清拭措置を終えて書斎に安置されたから、ふじ子が着くなり飛びついたのは11時前後のことであろう。第二陣のグループは見ていないはずである。

そこで江口の接吻証言だが、証言にもある通りこのシーンを目撃したのは江口ただ一人である。だから澤地久枝の言うように、これは江口の創作の可能性もある。しかし私は信じたい。

十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる。すると彼女は突然多喜二の顔を両手ではさん で、飛びつくように接吻(せっぷん)した。私はびっくりした。「そんな事しちゃダメだ、そんな事しちゃダメだ」。思わずどなるようにいって、彼女を多喜二 の顔から引き離した。
「死毒のおそろしさを言って聞かすと、彼女もおどろいたらしく、いそいで台所へいってさんざんうがいをしてきた。一たん接吻すると気 持ちもよほど落ちついたものか、もう前のようにはあまり泣かなくなった。

当初、「皆がいなくなってから」という表現から、通夜が終わってからの話かと思ったが、どうもそうではなさそうだ。夜11時前というとまだ第2陣が到着する前だ。その時にふじ子と江口以外に誰もいなくなった瞬間があった。

3.窪川稲子の「午前2時」は11時の誤り

そこで窪川稲子の「午前2時」証言が登場する。

稲子、百合子、壷井栄、安田医師らは遺体の検案・清拭を終えて、多喜二宅をあとにしたのだ。そして帰る。江口が「皆が帰る」というのはこのことを指す。

その道すがらに「踏み切りの向うで貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合」っている。そして貴司らが多喜二宅についたのが12時だ。

杉並ピースウォーク(10) 馬橋の多喜二の家の跡

によれば杉並町馬橋 3-375(杉並区阿佐ヶ谷南 2-22)とある。

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二重丸のあたりと思われる。道路はいまの道路と随分違っていて、「中大プール」と書いているあたりが踏切のようだ。踏切を渡ってしばらく行ってから左折して駅の北口に出たのかもしれない。
 

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「(不吉な黒っぽい幌をかけた)車は両側に桧葉の垣根のある、行き止りの路地の手前で止まっていた」という小坂多喜子の文章が当てはまる光景だ。

話を戻す。

ということは、稲子らは午前2時ではなく、その3時間も前に家を出たことになる。彼女たちは明日の仕事のために帰ったのだから、省線の終電に間に合わすつもりだったはずだ。(駅で円タクを拾う手もあるが)

逆算すると、稲子らが家を出て「踏切の向こう」に達する時間、そこで行き合った原泉らが家に到着するまでの時間、これを合わせた時間が「誰もいない」時間だ。

この1時間足らずの間だ。

慌てた江口が「死毒」など口から出任せを言って、とにかく帰らせようとする。意外にもふじ子は素直に言うことを聞いて帰る。台所で口をすすいでいるうちに我に返ったのかもしれない。なにしろ周りはスパイだらけなのだ。

とにかくも、この多喜二の通夜にふじ子接吻のエピソードを押し込めるとするなら、そこしかないのである。

そして名残りおしそうに立ち去っていったのは、もう一時近かった。

写真を撮ったのが午前1時とすれば、ふじ子はその直前までいたことになる。

ふじ子が帰った後、第二陣がどやどやとやってきて、写生したりデスマスクを撮ったり写真を撮ったりと大忙しである。

今回の写真、三吾の肩に手をかけた江口の何食わぬ顔はなぜか笑ってしまう。もっとも江口の頭のなかはそれどころではなかったろうが。(江口は百合子と稲子が通夜に来ていたのを記憶していない)