多喜二の通夜で、新たに発見された写真の解読

多喜二通夜3

困った写真が発見されたものだ。

ふじ子とタキさんを時系列の中にどうはめ込んで良いのか、あらたな混乱を招くことになる。

これで三連休が潰れることになる。

1.撮影状況を読む

まずこの写真(以下写真B)の評価から。

「赤旗」(2月22日号)の説明では貴司山治の遺族、伊藤純さんが父の遺品を整理中に発見したものだとされている。

既発の有名な写真(以下写真A)と同じアングルでほぼ同時に撮られたものと考えられる。前列右端の原泉と後列左の小坂多喜子が、2枚の写真の両方に同じ位置で写っているからだ。その差は数分程度と思われる。

これまで写真Aの撮影者は「貴司山治あるいは『時事新報』のカメラマン前川」とされていたが、これで貴司山治の撮影であることが確定された。

写真Bはフラッシュを使わず天井からの電灯の光のみを光源としている。このため画像はレンブラント効果を生んでいるが、長時間露光のため、かなりぶれている。

コピーによる劣化を考えてもかなりフォーカスは甘いが、奥の顔の鮮明度から考えれば、絞りは開放ではなくf8くらいはかけているのではないか。それで手ブレがないのだから手持ちではなく三脚を立てていると思う。

伊藤さんは「写真のぶれが衝撃の大きさを物語っている」と書いているが、写真Bがぶれたのは手ブレではない。画面左側から来客があったからで、一斉にそちらを向いている。とくに後ろの人がそっぽを向いている。三吾さんの顔が二重になっているのは露光1秒として0.8秒くらいの時点で来客がガラガラと入ってきたのだろうと想像する。

あつまった面々は、いつ警察が検束に来るかもしれないというのでソワソワしていた。(矢島光子)

おそらくその時に小林家に到着したのが鹿地亘、千田是也らであったろうと思う。彼らは上野壮夫(小坂の夫)とともに遺体の枕元に座り、腕組みして遺体を見下ろした。そこで貴司が二度目のシャッターを押した。

それが写真Aであったと思う。デスマスク取りや写生はその後始まったのではなかろうか。

なお、上野先生は前列左端がタキサンではないかと推理している。

可能性はないではないが、下記の経過表から見て姉ではないかと思う。姉は絶対来ているはずだ。セキさんが背中におぶったまま築地まで行った、その孫は絶対に引き取らなければならないからだ。そのとなり性別不明の人物は姉の旦那と考えたい。

(付記: 伊藤さんは写真Aと比較して鹿地亘だと判断している。そのほうが正しいようだ。とすると後ろのちょび髭が旦那か)

タキさんは翌日の葬儀に来ている(とされている)。妹やその友達を連れて来ているので、おそらく葬式の手伝いのつもりで来ているのではないか。

2.写真撮影までの動向

「小林多喜二の死の政治的意味」倉田稔という論文を骨にして、当日の経過を追ってみたい。

なお、下記のアドレスは本日(1月11日)はつながらない。以下はGoogleのキャッシュで拾ったものである。

barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/464/1/ER_53(2-3)_21-45.pdf

20日

正午 多喜二、赤坂で街頭連絡中に捕らえられ、築地署に連行きれる。

午後5時 多喜二、“取調中に急変”。署の近くの前田病院の往診を仰ぐ。(江口によれば午後4時ころ死亡)

午後7時 前田病院に収容したが既に死亡していることが確認される。“心蔵マヒで絶命”とされる。

21日

正午ころ 東京検事局が出張検視し、死亡を確認。 

午後3時 警視庁と検事局、多喜二が心臓マヒによ り死亡したと発表。ラジオの臨時ニュースと各紙夕刊で報じられた。

大宅壮一、貴司山治などが築地署にいち早く駆けつけ、当局との交渉にあたる。

築地小劇場で死亡を知った原泉が前田病院にかけつけ、「遺体に会わせろ」ともとめ、 特高とはげしくもみ合う。大宅壮一と貴司山治に救出された原泉は築地小劇場に戻り、各関係者と連絡を取る。

多喜二の母セキは 杉並区馬橋の自宅にいて、ラジオを聞いた隣家の主婦から,知らされた。セキは預かっていた二歳の孫(多喜二の姉の子)をネンネコでおぶると、築地署へかけつけた。

夕方 セキが築地署に到着。この時遺体は署の近くの前田病院に安置されていた。当初、警察はセキを二階の特高室に閉じ込め、なかなか会わそうとしなかった。

夕方 江口は吉祥寺の自宅にいて、配達された夕刊で多喜二の死を知った。大宅壮一からの電話があり、馬橋のセキさんを伴れて築地署へ来いと言われた。ただちに馬橋に向かうが留守のため、阿佐ヶ谷から省線でそのまま築地署に向かう。

夕方 青柳盛雄弁護士らが築地署に赴き、遺体の引渡しを要求。さらに連絡を受けた安田徳太郎医師がやってきて警察と交渉。

午後9時 孫をおぶったセキが特高室を出され前田病院に入る。

午後9時40分 遺体とセキら親戚を載せた寝台車が前田病院を出発。江口らがタクシーで後を追った。同乗者は藤川美代子、安田博士、染谷ら4人。

10時半ころ 遺体は「幌をかけた不気味な大きな自動車」(小坂多喜子)に乗せられて小林家に到着した。

この時小林家では近親や友人達が遺体を待ち受けていた。小坂多喜子は車に僅かに遅れて到着した。

どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。私と上野壮夫は息せききって…走っている時、幌をかけ た不気味な大きな自動車が私たちを追い越していった。…あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。
私たちはその車のあとを必死に追いかけていく。 車は両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。奥に面した一間に小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた(小坂多喜子の回想)

小坂と上野
        小坂と上野

ほぼ同時に江口、安田らのタクシーも到着。

セキの「ああ、いたましい…」のシーンがあった後、安田が検視を行う。

検視の介助には窪川稲子と中条百合子があたっている。検視の後、壺井栄らが遺体を清拭した。

午後11時 窪川稲子の回想: 事件を知った時点で、窪川は中条の家(下落合)で夕食をともにしていた。時刻には他の証言と相当ズレており、その原因は稲子の思い違いにある。到着時刻は10時半前であろう。

そして多喜二死亡のニュースを聞き前田病院へ電話をかけ、死体は自宅へ帰ったと知る。

午後十一時、我々六人 は阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。家近くなると、私は思わず駆け出した。

玄関を上がると左手の八畳の部屋の床の間の前に、蒲団の上に多喜二は横たえられていた。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。

我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。

お母さんがうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながらお母さんに声をかけた。

江口によれば、この間に多くの人が駆け込んできた。(このあたり江口の記憶はごちゃごちゃになっている)

午前2時 窪川稲子の回想: 壺井や、乳のみ児をおいてきた私や中條などが安田博士と一緒に外へ出た。…踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った。(これは午後11時半のことであろう。窪川らが小林宅にいたのは1時間余ということになる)

22日 

午前0時 千田是也, 岡本唐貴、原泉らがタクシーで到着。 「時事新報」 社のカメラマンが多喜二の丸裸の写真をとり、佐土(国木田)が多喜二のデス ・ マスクをとった。岡本唐貴が8号でスケッチを描いた。(時事新報の写真撮影はもっと前、検視時だと思う)

午前1時 小林家の6畳の書斎に遺体が安置され、人々は遺体を囲んだ。この時貴司山治により2枚の写真が撮られた。この後の記録はないので、写真撮影の後まもなく解散したのだろうと思う。

江口によれば以下の如し。
告別式は翌日午後一時から三時まで。全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸となる。
通夜の第一夜は何時か寒む寒むと明け放れていた。

午後1時 告別式。会葬しよう と した32名が拘束される。母セキ、弟三吾、姉佐藤夫妻、江口と佐々木孝丸だけが参列。


以上が、参加者の証言をつなぎあわせた経過の概要である。