死せる多喜二を巡ぐる群像

多喜二問題は一応の決着をつけたつもりだったが、上野武治先生からいろいろ聞かされて、とてもそういうレベルではないことが分かった。

改めて勉強させていただく。

まずは上野先生の論文の紹介から。

論文の題名はけっこう長いが、メインは下記の通り

大月源二の絵「走る男」が現代に問いかけるもの

北星学園大学社会福祉学部北星論集 2014-03

論文の冒頭には大月源二の絵「走る男」が掲げられる一風変わった論文である。

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この絵は治安維持法違反で服役した大月が出獄翌年の1936年に描いたものである。小林多喜二の鎮魂を目的に制作されたものである。

仔細は上野先生の論文をご参照いただきたいが、とにかく上野先生はこの絵から大月と多喜二にのめりこんだ。

大月は小樽中学時代から多喜二と付き合いがあり、1928年以降の他記事の小説の挿絵や装丁を手がけた。

大月は1932年に逮捕されていて、多喜二の虐殺時は獄中にあった。上野先生が注目したのは33年10月に仮釈放になったあと、「伊藤ふじ子の訪問を受けた」ことである。

これは「多喜二と私」という回想録の下書きに書いてあって、本文には書かれていないもののようである。

ここから先は上野先生の推論。

(ふじ子は大月が)保釈されたことを聞いて,多喜二との地下生活や遺体の様子,夫を殺された無念さを伝えに訪れたものと推測される。

ただ,ふじ子にとりこの訪問は危険を伴うものであった。大月は厳重な監視下にあり,転向した大月がふじ子と多喜二の秘密を守る保障もなかったからである。

しかし,ふじ子は大月を信頼した上で意を決して訪れ,多喜二の葬儀にも参加できず,怒りや悲しみを分かち合う相手もいない苦しみを伝え,多喜二を弔う気持ちを共有できたのではないだろうか。

そして、翌34年3月に森熊猛と再婚したきっかけもこの会見にあると推測している。(以上については小樽美術館の金蔵さんの調査を受けての記述と思われる)


以上が本文であるが、実はこの論文、注釈のほうが面白い。注釈を書くために本文を書いた趣がある。

謝辞 …貴重なご助言をいただきました大月耕平様(故大月源二様ご子息),篠崎木綿子様(故森熊ふじ子様ご息女)…に深く御礼申し上げます。

注釈3.「多喜二と私」の「下書き」の最後は、手塚英孝の文章の下書きで終わっている。大月が手塚の評価を受け入れていたことを示す。

注釈9.澤地は「接吻した」との江口の記載に懐疑的である。

しかし筆者は江口の方が厳しい地下生活を共に闘ったふじ子の様子をリアルに書いていると考える。

ふじ子がこうした激しく強靭な内面と行動力を持っていたからこそ,あえて大月を訪ね,かつ,自身や多喜二の遺骨・遺品を含む秘密,そして森熊家の幸せと平和を守りぬくことができたのである。

確かに上野先生に一理がある。それほどでなければ、あの状況で、ふじ子に遺骨が渡るわけがない。

注釈10.森熊猛(1907-2004年)は夕張出身で北海中学卒。21歳の時,北海タイムス募集の漫画が入選,喫茶店「ネヴォ」の佐藤八郎の紹介でヤップ北海道支部の結成に参加,1932年12月に上京しヤップの活動に参加。ただし大月との直接の接触はなし。

注釈13.「ネヴォ」は1928 ~ 1936年,北2条西3丁目に開店,クラシック音楽を流しており,文化人や学生,社会運動家が出入りし,東京でも知られていた。佐藤は小樽育ちで多喜二とも交流あり,ヤップ道支部長を勤めていた。
1930年12月の一斉検挙で逮捕され,1ヶ月半ほど札幌中央署に留置され拷問を受けた。

注釈21.多喜二の告別式で葬儀委員長として務めた江口は,告別式への参加者が片っぱしから検束され,「杉並署は検束者でいっぱいになり,道場まで臨時の留置場に使ったほどの大検束だった」と回想。ふじ子がどうしたなど、どうでもいい状況だった。

注釈24.子息の耕平氏に「走る男」を見ていただき、「目元が多喜二とそっくりです」とのご指摘を頂いた。