以下は私の思いつき。

1.立憲主義は近代社会の必須条件だろう

樋口さんの語る立憲主義は、「」付きで語らなければならないと思う。

理由は第一に樋口流立憲主義を存立させる論理形式がかなり危ういものであることである。それは民主主義との対抗形式で語られており、とりわけ民主主義の一つの「帰結」としての「社会主義」(スターリン主義)を拒否することを第一の存在理由としていることである。

この論理で行くとあたかも「民主主義者」と峻別する形で「立憲主義者」が存在するかのように描かれていく。その点ではきわめて党派的・イデオロギー的な学説だと言わざるをえない。

(ドイツ憲法論は現在も論議の的である。私は、西ドイツ憲法のキモはファシズムというイデオロギーの非合法化にあると思う。朝鮮学校への攻撃に対する京都地裁判決を参照のこと)

しかしそういう樋口さん流(ドイツ風)の「立憲主義」ばかりではなく、伊藤博文流の「立憲主義」もあるだろう。イギリス、フランス、ドイツのそれぞれが置かれた政治的歴史に即して、それぞれの「立憲主義」を持つ以上、民主主義的な立憲主義があっても良いのだろう。

立憲主義という概念はいまや我々にとって死活的に重要である。とすれば、「立憲主義」を樋口さんの専売特許にはせず、歴史貫通的なユニバサリティを付与していく責任が、我々にはあるのではないだろうか。

そして、その時に、「個人の尊厳」をキーワードとして我々なりの立憲主義論を構築していくことが、もとめられるのではないだろうか。

2.形式面から見た立憲主義と民主主義の関係

立憲主義と民主主義はベクトルが異なる。立憲主義の反対側には絶対主義・専制政治があり、民主主義(デモクラシー)の反対側には寡占政治(アリストクラシー)がある。

だから立憲主義と民主主義との関係は数直線上ではなく、X軸とY軸から構成される四つ目表(4象限)で語らなければならない。

そもそも、樋口さんの「立憲主義」の枠組み論は、主客転倒の持ってまわったレトリックである。市民の視点から憲法を見るのではなく、憲法の側から市民を統治の対象として見ている。

「意識が存在を規定」しているのである。「スカートはヒザ下5センチでなくてはいけません。なぜなら校則だからです。校則は良識の塊だからです」

3.柔らかい憲法と硬い憲法

このような逆立ちレトリック(歴史観を持たない観念論)を止めれば、樋口流立憲主義は、憲法にはゲームのルールのように柔らかい憲法と、コーランや聖書のように硬い憲法があるということを述べているにすぎない。

例えば、たしかエクアドルは19世紀初めの独立以来200年間で100回位憲法を作りなおしている。

柔らかい憲法と硬い憲法があるということは、立憲主義にも柔らかい立憲主義と硬い立憲主義があるということだ。これが横方向のベクトルだ。これはどうでもいいことである。

民主か寡占制かというのはこれに対して縦軸を形成する。だから『民主』と『立憲』は数直線上に並ぶのではなく、「民主かつ立憲」という象限として検討しなければならないのである。

ただし硬かろうと柔らかろうと立憲主義は立憲主義だから、そこには「最後の盾」としての譲れない一線がある。それは何なのか、そこをきわめ、ゆるがせにしないということが立憲主義ということになる。そうでないと「悪法も法」というソクラテス流のジレンマに陥る。

3.憲法は近代社会を後戻りさせないラチェット

立憲主義というのは、歴史一般の流れの中に位置づけるとすればラチェット構造のようなものではないかと思う。


    (ウィキペディアより)

つまり歯車が回るように歴史は動いてゆくのであり、ネジが回るように全体として進歩の方向に(回りながら)進んでいくのである。

 このとき歴史の流れを押しとどめようとしたり、逆回転させようとする働きも発生することがあるから、それに対する歯止めを造っておく必要がある。

それが憲法である。最初の憲法であるマグナカルタは王の横暴を抑えるためのものであった。そういう意味では、憲法9条というものは憲法のそもそもの精神を象徴しているといえるだろう。

基本に人類・社会の進歩の流れというものをおかないと、立憲主義は索漠とした法律談義になってしまう。

ちなみに、経済学で「ラチェット効果」というのは、景気の下降局面でも賃金や消費は対応が遅れるという状況を指す。それは御用学者にとっては「賃金の下方硬直性」と呼ばれ、どちらかと言えば悪者扱いをされているそうだ。

しかしこの下方硬直性は経済からすれば、市場の法則の徹底を許さない邪魔者だろうが、「人倫社会」からすれば市場論理の横暴を許さず、諸個人の生きる権利を擁護する、さまざまな法的システムのしからしむるものだ。

この制度的「下方硬直性」こそが憲法の真実(のひとつ)ではないだろうか。