「新春対談」ではしばしば樋口陽一さんが引用されている。中でも「専門知と市民知」というネーミングはなかなか洒落たものだと思う。
また対談の中では、「個人の尊厳」が民主主義と立憲主義をつなぐ媒辞になるということが語られている。
つまり話としては「民主主義←→個人の尊厳←→立憲主義」という三題噺の様相を呈しているわけだ。
これについては、樋口陽一さんのちょっとクセのある論理を念頭に置かなければならない。
「立憲主義」ってなあに? 江川紹子 2015年7月4日
というページに 樋口陽一さんのインタビュー記事があり、そこから紹介させていただく。
以下抜粋
――民主主義と立憲主義の関係民主主義は『人民の支配』『人民の統治』ですから、その時々の人民が『これで行こう』といって国の方向を決める。
憲法は、あえて誤解を恐れずに言えば、民主主義を進めるためにあるわけではない。「民主主義を一生懸命やるのは結構だけれど、それにも限界があるんだよ」ということを示している。
このように、『民主』と『立憲』は、純粋論理的に考えると緊張関係にあって、決して予定調和ではないのです。
――『立憲主義』の起源元々はドイツで、議会主義化への対抗概念として出てきました。もはや君主の絶対的な支配ではない。君主といえども勝手なことはできない。
けれども議会を圧倒的な優位にも立たせない。つまりは、権力の相互抑制です。ドイツはその後、ワイマール憲法で議会中心主義になり、そこからナチス政権が生まれて失敗した。それで、戦後のドイツは強力な憲法裁判所を作るわけです。
――明治憲法と伊藤博文明治憲法を作る時に、「臣民の権利」不要論があった。伊藤博文は反論した。
そもそも憲法を創設するの精神は、第一に君権を制限し、第二に臣民の権利を保護するにあり。ゆえに、もし憲法において、臣民の権利を列記せず、ただ責任のみを記載せば、憲法を設くるの必要なし
今から120年前の日本でこういう議論をしていた。それに比べると、今の政権与党の憲法論議のなんとお粗末なことか。
――「法の支配」とは「法の支配」(Rule of law)は、歴史的にはイギリスで生まれた英米法の基本原理です。イギリスには憲法典はありません。
ここで言う「法」とは、国会が作った法律のことではありません。マグナカルタ以来の法の歴史と伝統、慣習などを含めた規範のことです。枝葉を取り払って大胆な言い方をすれば、『法の支配』とは『人間の意思を超えたルールがある』ということです。(水戸黄門の「天下の御政道」かな)
――「法治国家」とはこちらは、歴史的に言うと、ドイツ語から来ている言葉です。フランス語では「法の国家」(Etat de droit) です。
選挙によって選ばれた議会が行政権をしばる。法律によって王様の権限を制限する。その合言葉が「法治国家」です。今、欧州評議会では、歴史的経緯は抜きにして、『法の支配』と『法治国家』をは同義語として扱われています。
――「法治国家」を内包する立憲主義かつては民主主義を押し進めていけば、いい世の中になる、その向こうには社会主義というもっといい制度もある、というのが、知識層のかなりの共通認識でした。
ところが社会主義の実態がだんだん明らかになっていく。やはり、権力というのは何らかの制限がされるべきだ、ということになって、立憲主義が見直されていった。『法の支配』『法治国家』を包み込む形で『立憲主義』が盛んにテーマになるようになっていきました。
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