5.ここから百済本紀の引用が始まる

508年 南の海の耽羅人(タムラビト=済州島の人)が初めて百済国と通った。南の海とは百済から見ての話である。

509年 久羅麻致支彌(クラマチキミ)が日本より来た。日本書紀では使者を百済に派遣したと記載される。

キミというのは倭国の官職であり、大和王朝ではない。当時百済は軍事的には倭国の庇護のもとにあったが、少々鼻息が荒くなってきた時期ではある。

509年 任那の日本の県邑に逃げ込んだ百済の百姓のうち、3・4世代過ぎたものを抜き出して、百済に送還して、本貫につかせた。

この事項は意味が分からない。ただ倭国を「日本」と書いているのが気になるが、原文がそうだったのか日本書紀の作者が編集したのかは不明。

511年 「遷都山背筒城」というのは明らかに大和朝廷内の出来事。このように内外の事項が混在している。

6.4県割譲のトラブル

512年 穂積臣押山(ホズミノオミオシヤマ)を百済に派遣した。この時筑紫国の馬40匹を与えた。

これも倭国と百済との関係であろう。馬は戦闘に不可欠なものであり、戦車40両を軍事援助したのと同じだ。

穂積はこのとき哆唎国守であった。多利国は百済と国境を接する上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁などの県からなっていたようである。いわば国境警備隊司令官だ。

半年後に百済は使者を倭国に派遣した。内容は厳しい要求だった。すなわち、任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4つの県を百済に割譲せよというものだ。

この使者に穂積も同行したらしい。穂積の言上の内容が良く分からないが、「くれてやったほうがいい。しかしそれが元で国境紛争が起きる可能性があり、そうすれば守れる自信はない」といったようだ。

大伴金村はこれを聞いてただちに4県割譲の勅宣を賜り、物部麁鹿火を勅使に任命した。しかし麁鹿火は割譲に反対し、この命を実行しなかった。それに尾ひれ羽ひれつけて言い訳している。

継体天皇の子、勾大兄皇子(後の安閑天皇)は「応神天皇以来の直轄領を容易く与えるべきではない」と反対し、その旨を百済の使者に伝えた。しかしその意見は百済の使者により拒否された。

その後、流言あり、曰く「大伴大連と哆唎國守穗積臣押山、百濟之賂を受く矣」

そして反譲渡派が安閑天皇を中心に一次政権を握るに至る。しかし、540年には安閑も大伴も共倒れとなり、物部が権力を握るようになる。

ということになっているが、511年の割譲がそこまで尾を引くとも思えない。この時期両国は基本的には友好関係にあったはずである。日本書紀の作者がこのエピソードを540年政変の合理化に利用したと見るのが妥当であろう。

いずれにしても、530年から40年にかけて倭国内が真っ二つになったことは間違いないようである。磐井の乱もその文脈で見ておくべきであろう。おそらくは国内対立が新羅に漁夫の利を得さしめ、ひいては倭国の滅亡へと導いたのではないか。

7.倭国で4カ国会談

513年に朝廷で百済、新羅、任那(安羅、伴跛)の代表が集まり会談。百済に己紋・帯沙が与えられる。伴跛も己紋を欲したが認められず。これを不満とする伴跛国は子呑、帯沙を占拠。日本に備える。

伴跛国は任那(諸国連合)の一国。この時期独立傾向を強めた。日本に備えるだけでなく、兵を集めて新羅を攻めたという。近隣攻撃の際、略奪と陵辱はひどかったようである。

515年、物部至至連が百済を訪問。帯沙の港を視察中に伴跛国に攻められ、怖畏逃遁、僅存身命、辛うじて逃げ延びる。翌年、百済に救出される。

以前、大伴金村や近江毛野には倭国にそれに相当する人物がいたと推論し、それを大伴金村B、近江毛野Bがいたと述べた。それと同様に物部麁鹿火にもBがいたと考えるべきだろう。

日本書紀の作者が百済本記から引用したことはたしかだが、そこには別の人物の名があったはずである。私なら、このようなタネ本は要らなくなったら燃やしてしまうだろう。

517年、物部連は百済高官に送られ帰国。同年9月には百済高官に付き添われて高麗の使者の安定が倭国を訪れる。

8.磐井の反乱

この後10年間、百済本記からの引用はほぼ途切れる。武寧王が死んだことくらいしか日本書紀には触れられない。

近江毛野が任那に派遣される記事から、それは再開される。

6万を率い、新羅に破られた南加羅・喙己呑の奪還を図るのが目的とされる。その後、突如磐井の反乱へと繋がる。

日本書紀はこれは偶然ではなく、新羅が磐井に遠征軍の側面攻撃を指示したからだと主張する。その根拠はなんだろう。

日本書紀では、磐井と戦ったのは麁鹿火だとされている。しかし闘いい至る経過はいかにも創作めいている。(訳者さんは中国の「芸文類聚」という本のコピペだと言っている)

任那と筑紫の二正面作戦を戦うのは無理だ。どう考えても近江毛野の軍が磐井と戦ったのだろう。

9.毛野の失態

毛野が任那に渡ったのは530年のことである。ここでも誰と戦ったのかは不分明である。新羅と戦った形跡は見られない。

任那の日本府のある安羅に着任した毛野は、詔勅を新羅に送り、南加羅と喙己呑の任那返還を求めた。

百済は安羅に高官を送り詔勅を受けた。しかし新羅は下級官僚を送ったのみだった。百済の高官は目下の扱いを受けたことに立腹した。

任那王アリシトは、毛野頼むに足らずと見て直接朝廷を訪れ、大伴大連を通じて天皇に任那防衛を請願した。

本国の叱咤を受けた毛野は百済・新羅の両国王との三者会談を呼びかけたが、百済・新羅ともに応じなかった。

毛野の高圧的態度に怒った新羅は、南加羅と喙己呑を返すどころか金官・背伐・安多・委陀の4つの村を奪った。

この後事態は膠着状態となり、天皇は毛野に帰国を勧めるが、毛野は任務未完と訴え、勧告を聞こうとしない。

最後には新羅・百済・任那に総スカンとなり、本国に強制送還される途中、対馬で客死する。

この間の経過で注目されるのは天皇と毛野の間の距離感が近いことだ。いかにも毛野は出先機関の長であり、現地スタッフのトップは気に入らないとすぐに朝廷までねじ込んでくるし、朝廷の方もけっこうまじめに対応している。この辺がいかにも博多と釜山だ。

530年には別件で、物部伊勢連父根が、加羅領の多沙の津を百済に与える事件も起きている。これは百済王が穂積押山を通じて倭王に請願したものだ。

怒った加羅国王は新羅についてしまった(加羅と任那はほぼ同義)。これは任那と任那の倭国系勢力を一体のものとしては見られないことを示唆している。

ただしこれは513年の記事の「二度使い」の可能性がある。この種の「使い回し」は頻繁に起こっており、史料批判を難しくさせている。

10.継体天皇の死

任那の陥落は任那の日本人系権力の崩壊であり、構成各国は日本を離れ、新羅なり百済に帰属して行っただけなのかもしれない。

とにかく任那では何をやってもうまくいかない。倭国の権威は地に落ちた。

かくするうち、531年には継体天皇が死んでしまう。これは大和朝廷の継体のことであろう。

なお日本書紀の作者は、531年を没年とするのは百済本記によるので、534年という説もあると告白している。

ところで百済本記によれば、倭国の継体Bは「太子、皇子ともにみまかる」とある。

これは540年の宣化天皇の死と類似しており、皆殺しになった可能性が否定出来ない。ただし百済本記はこれが伝聞情報であると付け加えている。