継体天皇は名を男大迹(おおどの)という。士を愛で、賢に礼を払って敬い、心広く心豊かであったという。

1.なぜ生没年が激しく食い違うのか

男大迹が天皇に即位したのは57歳のときのことであった。

これは限りなく常識はずれである。これは生年が450年、即位が507年という日本書紀の記載にもとづいている。そして530年、80歳で現役死しているのである。事実とすれば「老害」もいいところだ。

もし没年を530年とするならば、妥当な推定としては480年頃の出生、27歳前後での即位と見るべきである。古事記では485年生誕となっている。妥当なところだ。

30年後ろにずらせば、即位後の子作りも無理なく説明できる。安閑、宣化も30歳代での即位となり、無理なく受け止められる。欽明天皇の異様なまでの長期にわたる在位も説明できることになる。

ただそうなると、なぜ日本書紀が古事記から35年も遡らせて、450年という数字を持ち出してきたのかというのも気になる。

日本書紀の作者が、古事記の記載を知りつつ、強引に35年も遡らせたのは、450年生まれの人物(ひょっとすると倭王武)が倭国にいて、それが継体天皇にダブらされたのかもしれない。よくやる手だ。

では没年はどうか。これも古事記の527年に対し、日本書紀は531年を主張し、異説として534年説を紹介している。

こちらのほうが誤差は少ないが、より深刻だ。つまり筑紫の乱の鎮圧に継体が関わったか否かが直接問われてくるからである。古事記は継体は関係ないよと示唆しているのに対し、日本書紀ではもろに当事者となる。

しかし生年を35年もずらすような日本書紀の作者を誰が信用するだろうか。

この辺でつぶやきは止めて、本文に移ろう。

2.継体は当初よりカイライであった

武烈天皇が死に後継が絶えた。大伴金村が会議を召集し、丹波国の倭彦王を推挙した。倭彦王はこれを忌避し行方不明となった。

このため、あらためて越前の男大迹王を推挙した。金村は「“帝業”を引き継がせよう」と提起している。たしかに天皇業も一つの稼業だが。

これに同じ大連の物部麁鹿火、大臣の許勢男人も賛同した。この時、「枝孫中から、吟味して選べば男大迹王だけだ」 と和したという。つまり「よりマシ論」だ。

大伴、物部、許巨勢のトロイカによる極めてクールな会議である。そして男大迹は、もうまもなく還暦という座りの良いカイライにすぎない。

2.継体は後継者づくりの種馬だった

継体という名前を河内王朝を継ぐものと理解してはならない。それは次に政体を継ぐ中継ぎという意味だ。

金村は仁賢天皇の娘を娶せて、子作りを促している。(57歳の男に!)そして生まれたのが欽明天皇だ。だから河内王朝の政体を継ぐという意味で継体を名乗るのなら、欽明のほうがふさわしいことになる。

3.ショートリリーフとしての安閑、宣化

もちろん57歳の男に子供がいないわけはないので、それが勾大兄皇子と檜隈高田皇子で、この二人が安閑、宣化として即位してショートリリーフを務めた。

そして満を持して欽明が540年に即位したということになる。

こうやってしゃにむに事情を説明したのが日本書紀である、ということは憶えておこう。

4.経済の二本柱

帝王はみずから耕し農業を勧める。后妃は桑を作り蚕に親しむ。農業と蚕業を廃棄して、賑わい栄えることなど無い。

これが即位にあたっての詔である。「耕す」にはタツクルとルビが振ってあるので、水田耕作である。コメも絹も庶民が用いるものではないので、交易を前提とした一種の換金作物としての扱いとなろう。

政権のグローバルな性格を示唆するものとして、ここは注目しておく必要がある。

ここまではまったく半島との関係は出てこない。大和だけの内輪話である。

そこから浮かんでくる政権像は権力維持に汲々とするトロイカと成り上がった地方豪族の「野合」でしかなく、朝鮮半島の覇権をめぐり丁丁発止とやりあう剛気を見て取ることはできない