古代史は二つの歴史が並行して流れている。

一つは倭国の歴史であり、一つは大和の歴史である。

倭国の歴史はかなり文書として確認できるが、どこかでふっつりと切れる。それがどこまで確認できるのか、これが一つのポイントである。

一方大和の方の歴史は文書で確認できるのはかなり後世になってからで、はっきりこれは大和だといえるのは、二回目の遣隋使「日出処の天子…」であり、これに続く隋の使者裴世清の訪日である。

しかしその前に白鳳文化があり、飛鳥寺がある。これは大和朝廷が日本全体を統合するほどの権力を持っただけではなく、仏教の受容を通じて半島と直接の連絡を実現した遺物として確認できる。

では飛鳥寺が遡れる最古の時点なのか、これが第2のポイントである。

第3のポイントは、倭王武の上表を最後にして、日本書紀で大和朝廷の出来事のように語られている部分がどのように分離可能なのか、どこまでが倭国の歴史を日本書紀が「改ざん」(主観的には改ざんではなく、「解釈」であったかもしれないが)したものなのかである。

私はこれまで第3のポイントを中心にして、任那の滅亡までは倭国が存在していたと解釈し、大和王朝の歴史から分離してきた。

しかし以下の点で、果たして百済の後ろ盾として倭国がどの程度自立していたかが疑問となる。

一つは磐井の乱から、継体天皇の即位、その直後の死、その後2年の王位の空白、安閑・宣化と二代続く異常に高齢の天皇の異常に短い在任。これに対して、その後の欽明天皇の異常に長い在任期間。倭王武と重なるほどに長く支配者の地位にあった大伴金村の失脚。

これらすべてが作り物めいていて、日本書紀の作者の作為を感ぜずにはいられないのである。

そして、これ以上は検討が進まない。結局、日本書紀を読み込みながら、百済本紀に近い部分を探っていかなければならない。

もう一つは、これまであまりまじめに取り組んでこなかった、大和朝廷の歴史をもう少し遡る作業だ。

この点で、蘇我稲目の墓の発見は大きなニュースだ。ここから金石文でも見つかればさらに大きいが、とりあえずは見つかったというだけでも大きい。

蘇我稲目が大和朝廷の超大物として明日香に存在し、570年(1年前後の狂いはあるようだが)に死んだということが確定的事実として語りうることになる。

ということはおそらく欽明天皇の実在も確定できたということになる。ただしその在位が530年からか、540年からかというのは依然として謎である。それによって、稲目の大臣就任が宣化天皇によるものか欽明天皇によるものかが変わってくるから、この問題は極めて重要である。

いずれにしても、540年という年がどんな年だったのか。これが古代史の焦点だろう。