蘇我稲目は倭国の末裔?

倭国の消失

蘇我氏は日本書紀に突如登場する。その祖が稲目である。

私の年表 で、武寧王から任那滅亡での年表を記載した。

最後の部分はこうなっている。

554年 聖王、倭国の支援を受け新羅と戦うが、管山城で戦死。威徳王が後を襲う。

555年 日本書紀によれば、威徳王が弟の恵を倭国に送り、聖王の死を伝える。

561年7月 百済、倭国の支援を受け新羅と戦うが、敗北し撤退。このあと任那は滅亡し諸国は新羅の支配下に入る。このあと、三国史記に倭国は登場せず。

これで年表は終わる。

気がついたのだが、それまでの記録の多くは日本書紀に転記された百済本紀によるのではないか。ということは、①百済本紀がここで終わってしまったのか、②日本書紀が引用・転載をやめてしまったのかのいずれかということになる。

百済はまだこの後も100年を生き延びる。その間に日本に仏教を伝え、飛鳥寺の建立に尽力する。落ちぶれたとはいえ、一国家としての体面は保っていた。百済本紀の編纂を諦めてしまったとは考えにくい。

そうすると事情は日本の側にありそうだ。引用するには都合の悪いことがあったから引用をやめたということも考えられる。しかし一番素直な考えは、大和王朝と百済が直接交流を始めたからではないだろうか。直接交流が始まれば、過去の文書に頼らなくても直接会って話をすることが出来る。これから後は記憶は共通のものとなるのだ。

大和政権にとっては、必ずしも百済が最も近い国というわけではなかった。むしろ地理的には新羅のほうが近い。ただし新羅と大和を行き来するには対馬・壱岐・松浦というルートは必ずしも便利ではない。そういうことを考えると、最初は等距離外交であった可能性もある。

それが一気に関係強化に至るのは、やはり仏教絡みであろう。そしてその延長線上に蘇我氏があり飛鳥寺がある。その流れを念頭に置きながら、大和・百済関係を少し調べてみたい。

「仏教伝来」の前後

日本書紀では次のように仏教伝来が記されている。

552年 百済の聖明王から釈迦如来像と仏具、経論が贈られる。日本書紀によれば、大臣である蘇我稲目がその安置と礼拝を許される。

前後経過から見て、贈り先は欽明天皇ではなく倭国の王であろう。

再掲するが、ここで仏教伝来と百済の敗退、任那の滅亡はクロスしているのである。

554年 聖王、倭国の支援を受け新羅と戦うが、管山城で戦死。威徳王が後を襲う。

555年 日本書紀によれば、威徳王が弟の恵を倭国に送り、聖王の死を伝える。

561年7月 百済、倭国の支援を受け新羅と戦うが、敗北し撤退。このあと任那は滅亡し諸国は新羅の支配下に入る。このあと、三国史記に倭国は登場せず。

どう考えても、倭国は仏教伝来の時点でしっかりと存在していたのである。そして百済を助け、新羅と闘い、任那滅亡後まもなく姿を消しているのである。

そして仏教は大和王朝への引き継がれた。誰によって?

蘇我氏だ。

大臣 蘇我稲目の出自

聖明王が仏教を伝えた相手が倭王であったとすれば、なぜ蘇我稲目がその安置と礼拝を許されたのか。日本書紀を読む限りは、蘇我稲目が倭王朝の中枢にいたからだということになる。

もちろん、大伴金村にしても近江毛野にしても日本書紀の作者が勝手に大和王朝の人物を比定させただけで、ウソばっかりだ。同じように蘇我も大和の蘇我を倭王朝の誰かに比定した可能性はある。

しかし蘇我氏に限っては真実だった可能性もある。この辺の感触は専門家でないとわからないだろう。いまは一介の素人研究家として、蘇我氏の記述は真実だったと仮定しておく。

その上で、その仮説を支持するような状況証拠を集めてみたい。

まずウィキペディアその他から蘇我稲目に関する記述を拾って行く。

生年不詳。一説に506年(武烈天皇8年)。没年は570年(欽明天皇32年)。父は蘇我高麗、祖父は韓子となっている。いかにもウソっぽい。肝心なことは蘇我家が韓人の血を濃く引き継いだ一族であるということ、そしてヤマト王権内における血統はほとんど皆無だということである。

年表に戻る。

536年、大和朝廷の大臣となる。この時30歳。稲目の妻は葛城氏の出とされる。552年、仏教公伝の際は50歳前後となる。

仏教受け入れをめぐるゴタゴタで野に下るが、天皇家と姻戚関係を作り上げ、そちら方面からのしていく。また岡山の領地経営でも成功したようだ。

死んだのが570年。計算上は64歳となる。その前に注目されるのが562年に二人の女性を妻としたとの記録。半島から帰国した大伴狭手彦が献上したふたりの女性を妻としたとされる。

ここにも狭手彦が登場する。そして任那が滅亡したのがその前年だ。ということは、稲目は下野した後も任那での戦争に対して強い影響力を持ち続けたということだ。

この経緯は蘇我稲目が倭国王ないしそれに近い立場の人間として存在していた可能性を示唆する。

倭王朝内部での蘇我氏の孤立

稲目は仏教を支持し、物部と中臣はこれに反対した。天皇は稲目に仏像を授けて試みに礼拝することを許した。

553年に、物部と中臣の主張が通り、仏像は捨てられ寺には火がかけられた。

ということで仏教受容をめぐる闘争は物部側の勝利に終わり、蘇我はいったん野に下っている。

しかしこれを倭王朝内部の紛争と見るか、大和王朝の内紛と見るかで事情は大きく異なってくる。

くどいようだが、前後の事情から見て、これらの出来事は倭王朝内部の出来事である可能性が高いと思う。仏教の受容をめぐり割れたのは倭王朝であり、倭王朝は蘇我氏を排斥し反仏教ないし非仏教を貫いたのである。

その残党が多利思北孤に繋がる。多利思北孤については稿を改めて触れておきたい。

蘇我氏、倭王朝から大和王朝へ

ここから先はほとんどあてずっぽうだ。

1.蘇我家は仏法伝来の552年には倭王朝のトップ、あるいはそれに次ぐ位置にあった。

2.蘇我の出自は韓人系で、それを誇りとしていた。

3.当主の稲目は百済と連携し仏教の受容を領導したが、倭王朝内の紛争に敗れ下野した。しかし、任那滅亡の時点でも、依然として倭国内に強い影響力を保持していた。

4.稲目の一族は何処かで大和(物部・継体政権)の下に移った。彼は葛城氏と結びついて、瀬戸内海の航路を押さえ、岡山に独自の領地を形成するなどして勢力を拡大した。

5.稲目の大和への移動は、実質的に神武東征に次ぐ第二の「東征」であった可能性がある。