書評欄に尾崎左永子さんの歌集「薔薇断章」が紹介されている。
5首が紹介されているが、その中から3首引用する。

いつの日も やがては海に吸われゆく 街川の水 冬日に光る

茅原(かやはら)は光乱して吹かれゐき 蜻蛉(あきつ)は宙に とどまりながら

禱(いの)るべきこと おほよそは無きままに 永く 掌を合はす時あり 今は

三枝さんという方が評しているが、必ずしも同感できない。
一首目と二首目は光の詩で、しかも秋であり冬である。透明な、乾いた、明るいのに温かみの感じられないLEDみたいな光だ。
1首目は、「街川」と「冬日」がダブルで造語・濃縮されている。この凝縮された叙景に、どう上の句をつけるかだ。そこで「吸われゆく」という言葉が作られた。そして「いつの日」と「冬日」があやうく説明にならず、リズムになる。かなり人工(つくりもの)的な歌といえる。「吸われゆく」が感じ取れるかどうかが分かれ目だ。私などは下賤だから、吸われゆくというと便器の水が、最後にゴボゴボと音を立てて吸われるさまが思い浮かんでしまう。
2首目も「ウーム」と唸る歌だ。アシやヨシでなくカヤというのは、私の子供の頃の情景にはない。山家(やまが)の風情だ。逆光で見ているから光が乱れるので、そろそろ日暮れ時の情景だろう。カヤが揺れるさまは「そよそよ」という感じではあるまい。
「吹かれゐき」が分からないが、「ゐき」は「逝き」を念頭に置いているのだろう。普通は草が動かず、蜻蛉が動くのだが、この情景では逆になっている。カヤが「吹かれゐく」のに、アキツが留まるのである。
これも頭のなかでこしらえた情景に思える。
失礼ながら、この婆さん、まだ悪達者なところがある。「おほよそは無い」と自分では思っていても、どうして、まだ芯はナマだ。枯れるにはヨクもアクも残っている。そのうち「最後の歌集、その第三弾」が出るかもしれない。