これまでの勉強で、①戦後引揚は空前の、ほとんど奇跡的と言っていいほどの民族大移動だったということ、②それがGHQの強力なイニシアチブのもとに行われた準軍事作戦だったということ、については理解ができた。

しかし3つめの問題、日本がそれをどのように受容したのかということについては、未だ理解が深まったとはいえない。以前浮浪児の勉強をした時に、浮浪児のかなりの部分が引揚者の子供だったことについて知っている。

彼らがさまざまな苦難を味わいつつ、どのように日本に適応し順化していったのかは、まったく未知のテーマである。(同時代者としてはお恥ずかしい限りであるが)

安岡健一さんの引揚者と戦後日本社会 という文献を見つけたので、紹介がてら抜き出してみる。

なお見出しは、我ながらちょっと大仰だと思う。ご勘弁を。

1.日本政府は嫌々ながらに受け入れた

日本政府は当初「現地定着方針」,つまり在留者はそのまま現地に止まるべきだという方針を打ち出していました。

「出来得る限り,現地に於て共存親和の実を挙ぐべく忍苦努力すべし」(8月31日の終戦処理会議)

ありていに言えば養育放棄だ。「忍苦努力」とは良くも言ったものだ。

2.GHQではなくアメリカ本国がイニシアティブをとった

GHQはポツダム宣言を履行するため軍の復員と解体を急いだが、民間人の帰還はその後と考えていた。

1845年の末にアメリカ本国の政府の方針が転換した。政府内で、中国大陸に日本人が存在し続けることへの警戒感が高まったためと言われる。

それを受けてGHQも日本人の「早期全面引揚」を実施する方向で動いた。

日本政府は最後の段階まで受入れに向けて自発的に行動せず,外地居住者の現地定着方針を維持し続けた。

3.引揚者は無産者だった

「日本」へ持ち込み可能な資産は一人1000円以内に制限された。それまでの財産は凍結された。

この大量の人の移動を受け止める時の条件は,まさにこれらの人が何も持っていなかったというところから始まるのです。

4.引揚者はよそ者だった

すなわち戦後日本の領域以外のアジアに暮らした経験があり,その意味において戦後日本社会においては「他者」であった,…「他者性」を強く帯びた存在であった。

ちょっと文学的表現だが、本音で言うとこういうことだ。

外地帰りの人はそれぞれの行った先で、それなりに「いい思い」をしていた。知識もあるし、皇国史観一色ではない。東京の子が田舎に疎開したのと同じで、お互いに馴染めないのである。

5.引揚者は怒っていた

彼らは周囲の状況が不穏になるに連れて、「帰心矢のごとき」状況で戻ってきた。

のではあるが、一面では急かされて身ひとつで、いわば「強制連行」のような形で連れ戻されたという側面もある。

GHQは連れてくれば仕事は終わり、政府はあからさまに迷惑顔、世間も自分のことで精一杯、という状況に引揚者はいきなり突き落とされた。「いま浦島」である。

彼らは「戦争の犠牲を(すべての国民が)均分化すべきだ」と主張しました。そしてこの理念に連なる個別の要求として「未帰還者の早期帰還」とか「生活保護の適用」「在外資産の補償の要求」等が出てくる形になります。

そして、出身地ごとに組織され、集団として声を上げるようになる。それ以外に実を守るすべはなかった。

1948年末から49年にかけてメディア上に「赤い引揚者」という言葉がしばしば登場します。

というのも、こういう背景があったからであろう。

6.もっとも深刻な住宅問題

1948年の時点で,京都府には引揚者約7万人,27000世帯が暮らしていました。その内約4000世帯が住宅を持たず収容施設を必要としていました。

当時の行政が,収容施設の運用によって対応できたのは,この内,わずか3割程度に過ぎませんでした。

ということは2800世帯が宿なし・ルンペン生活か物置ぐらし家族バラバラぐらしをしていたことになる。全体の1割強だ。京都でこうなら、ほかは推して知るべしだ。

7.「引揚者」の抹消

1950年以降,政府は「引揚者」の抹消に向けて動き出す。

引揚者は行政の「援護対象として考慮しない方針」からさらに進めて、引揚者寮を整理する方針が国から示された。

引揚者への対応変化は,占領の終結後に軍人恩給が復活し,旧軍人に対する援護が着々と整備されていくことと対称的です。

こうして敗戦直後に存在したさまざまな団体は,49年以降,大半が解散していく。

驚いたのだが、引揚者団体全国連合会

はもはや存在しない。このリンクはもうつながらない。
東京都千代田区永田町1-11-28相互永田町ビル2Fという住所はあるが、つながらない。