中国帰還者

公式のものとしてはアジア歴史資料センターの「公文書に見る終戦 -復員・引揚の記録-」というもの。

意外と言っては失礼だが、ウィキペディアの「引き揚げ」の記事が要領よくまとまっており、全体像の理解に役立つ。上のサイトもこの記事のリンクで初めて知った。「引揚者」という同種の記事もあるが、個別の人物にも焦点を当てているためにやや散漫な印象がある。

率直に言って、多くの記事は引き揚げについてと言うより引揚者の手記のようなものが多く、PDF論文も各論の迷路に入りこんだものがほとんどだ。

さらに右翼の諸君の記事はことさらに感情的で、一方的だ。


終戦時海外にいた日本人は、軍人350万人、一般邦人310万人であった。この内一般法人が「引揚者」と呼ばれ、軍人は「復員兵」と呼ばれた。 しかしその人達を載せた船はいずれも引揚船と呼ばれている。

「引揚者に対する特別交付金の支給に関する法律」(昭和42年)で「引揚者」の定義が行われている。

「外地」(日本本土以外の地域)に1945年(昭和20年)8月15日まで引き続き1年以上生活の本拠を有していた者で、終戦に伴って発生した事態に基づく外国官憲の命令、生活手段の喪失等のやむを得ない理由により同日以後日本に引き揚げた者

しかし、基準にはまらないケースが数多くあるため、3つのケース(内容略)が引揚者として扱われた。


昭和20年(1945年)

45年8月

8月 ポツダム宣言が発表される。日本軍の即時武装解除と早期本国帰還を一連の措置としてもとめる。いっぽう民間人帰還については触れられず。

8月14日 外務省、在外公館に対し「三カ国宣言受諾に関する訓電」を発する。「居留民はできる限り現地に定着させる方針」を指示。

8月15日 終戦(ポツダム宣言受諾声明の発表)。この時点で軍人・民間人計660万人以上が海外に在住していた。

陸軍が308万人、海軍が45万人。一般人300万人。
軍管区別では中国312万人(47%)。ソ連(旧満州ふくむ)161万人(24%)。英蘭74万人(11%)。オーストラリア(ボルネオ、英領ニューギニアなど)14万人(2%)。アメリカ(沖縄などふくむ)99万人(15%)

8月21日 総合計画局および内務省管理局が在外邦人引揚の計画を立案することが決まる。(実際にはまったく計画は進行しなかったようである)

8月22日 樺太からの引揚者を載せた小笠原丸・泰東丸・第二新興丸、増毛町沖において、国籍不明の潜水艦の攻撃を受ける(後にソ連軍潜水艦であったことが判明)。小笠原丸・泰東丸が沈没。3隻で約1700名の犠牲者を出す。

8月23日 朝鮮に向かう引揚船浮島丸、舞鶴湾港外において触雷・沈没。524名が死亡。

機雷の触雷事故としては、45年だけで、この他室戸丸(10月7日神戸・魚崎沖 死者355名)、華城丸(10月13日神戸港沖 死者175名)、珠丸(10月14日壱岐島勝本沖 死者541名)がある。

8月23日 ソ連、残留日本兵のシベリア抑留(強制労働)を決定。

8月28日 横浜に米軍が進駐。朝鮮在留日本人送還のため、釜山と仙崎・博多を結び興安丸、徳寿丸の運行を許可。

8月30日 次官会議、外地および樺太在留邦人の引揚者に関する応急措置要綱を決定する。

45年9月

9月01日 興安丸が釜山に向け仙崎を出港。翌日には引揚者7000人を載せ仙崎に入港。引揚船第一船となる。

9月03日 100総トン以上の船舶がGHQ総司令部の指揮下に入る。

9月07日 「外征部隊および居留民帰還輸送等に関する実施要綱」が閣議で了解される。「現地の悲状にかんがみ、内地民生上の必要を犠牲にしても、優先的に処置する」ことを指示。(この項については9月20日の記事と食い違いあり、少し検討が必要。)

9月15日 氷川丸が舞鶴を出航。軍人・軍属(約2千人)の救援のためマーシャル諸島のミレ島に向かう。

氷川丸(NKK)と高砂丸(OSK)の2隻が日本に残された外洋航海可能な船舶だった。ともに特設病院船として艤装されていた。(別記事に掲載)

9月18日 引揚者上陸港(10ヶ所)が指定される。舞鶴、浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司。(記事からは誰が指定したのか不明)

9月20日 「外地から内地に引揚げる者…に対する応急援護のため」都道府県に引揚民事務所を設置することを決定。(帰郷した引揚者への内務省レベルの対応であろうか?)

9月24日 次官会議、海外邦人帰還に関し、「極力海外に残留せしめるため、その生命財産の安全を保障する」ことを決定。

連合軍は「日本陸海軍の移動に第一優先を、民間人の移動に第二優先を附与すべし」と指示したとされる。

45年10月

10月03日 アーノルド軍政長官、在朝日本人の本国送還を発表。これを機に、民間人の引き揚げが本格化する

10月10日 GHQ、佐世保などを引揚受入港に指定。引揚事務所を設置する。

10月14日 済州島からの引揚第一船が佐世保に入港。陸軍部隊9997人が上陸。(良く分からないが輸送船1隻に1万人も乗るだろうか。スッポンポンでもあるまいに)

10月15日 GHQ、引揚者の受け入れのため受入事務所の設置を指令。引揚に関する中央責任庁として厚生省が任命される。(GHQは内務省を解体し、あらたに引揚者のためのシステムを立ち上げたとみられる)

10月16日 GHQの細部指令。海外日本人の本国送還に関する方針、引揚のための船舶確保等について指令。

GHQ・極東海軍司令官の下にSCAJAP(Shipping Control Authority for Japanese Merchant Marine)が設立される。100トンを超える船舶の運航や船員管理にあたる。氷川丸などの病院船運行もSCAJAPが管理する。

10月22日 厚生省社会局に引揚援護課を新設。浦賀・舞鶴・呉・下関・博多・佐世保・鹿児島に地方引揚援護局が設置される。また横浜・仙崎・門司の三出張所が設置される。

45年11月

11月24日 上記に加えて唐津、仙崎、宇品、田辺、名古屋、函館に地方引揚援護局が設置される。(この後5月までの半年にわたり頻繁に新設・廃止が繰り返される。いかにも戦闘態勢である)

11月01日 栄丸遭難事件が発生。台湾疎開から沖縄行きの引き揚げ船が遭難して約100人が死亡。

当時、沖縄は米軍占領下に置かれ、引き揚げ事業は開始されていなかった。このため多くの沖縄出身者は民間船による密航で自力帰国した。

45年12月

12月01日 陸軍省、海軍省が廃止される。後身として第1(陸軍)、第2(海軍)復員省が発足。

復員省の所管のもとに佐世保など旧鎮守府に地方復員局が設置された。旧陸海軍軍人の引揚業務を行う。職員の大半は引揚船に乗組み、旧軍人、一般邦人を迎えに行く。

12月01日 厚生省、引揚援護局を設置。一般邦人の引揚業務を開始。

12月7日 スカジャップ、日本船に加え、米国艦船を導入し復員業務に投入。

リバティ型輸送船(7000トン)を100隻、LST艦(戦車揚陸艦3000トン)を85隻、病院船6隻が貸与された。

12月15日 「生活困窮者への緊急生活援護要綱」が閣議決定される。戦災者・引揚者・留守家族・傷痍軍人・戦没遺家族等に対し緊急援護の措置を講じるもの。


昭和21年(1946年)

46年1月

1~10月 海外からの引揚げがピークを迎える。最初は南洋諸島からの民間人約2万人の引き揚げ。この作戦は4月までにほぼ完了。

1月15日 NHK、「復員だより」の放送を開始。約1年にわたり続けられる。

1月 中国国民党、中国共産党、アメリカの三者会談。中国残留日本人の帰還方式について協議。東北部残留の日本人を国民党支配区に移送、遼寧省錦州 の葫芦(ころ)島から送還することで合意。なお旧関東州と安東(中朝国境)の日本人は東北民主連軍(紅軍)とソ連軍が送還することとなる。

46年3月

3月 ソ連軍の東北部撤退が本格化。これに代わり国府軍が東北部に進駐開始。

3月 引揚援護院が設置される。援護局、医務局、地方引揚援護局がおかれる。

3月16日 GHQ、「引揚げに関する基本指令」を発する。

3月 福岡に女性患者のための「二日市保養所」が設置される。

4月 南朝鮮にいた民間人のほとんどが日本へ引き揚げを完了。総数は40万人におよぶ。

46年5月

5月7日 錦州地区に集結した日本人が、葫芦島からの引き揚げを開始。46年末までに102万人、48年末までに105万人の送還を完了。葫芦島に移動するまでの間に24万人が死亡したとされる。

満州からの引き揚げ者の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち8万人近くを満蒙開拓団員が占める。民間人犠牲者の数は、東京大空襲や広島への原爆投下、さらには沖縄戦を凌ぐ。
6月 第一復員省と第二復員省が統合して復員庁となる。その後厚生省に所属。

10月05日 大陸同胞救援連合会が結成される。中国に取り残された日本人の帰還促進を呼びかける。

11月27日 「引揚に関する米ソ暫定協定」サハリンと北朝鮮、大連のソ連占領地区からの日本人引き揚げが米ソ間で合意。

11月 テイチクから田端義夫の「かえり船」が発売され、大ヒット。(歌詞はどうもしっくりこない)

46年12月

12月8日 シベリア引き揚げ船第一船、大久保丸などが5000人を乗せて舞鶴に入港。大連引き揚げ第一船が佐世保入港、3000人帰還。

12月19日 日本の要請を受けたアメリカがソ連との交渉。「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立。サハリンと千島地区からの引き揚げが開始。49年7月の第5次引き揚げまでに29万2590人が引き揚げる。(終戦時の在住者は40万人。公式引き揚げまでに数万人が脱出していた)

12月 共産党支配地域を含めて、東北部の日本人の大半が引き揚げを完了。

12月 46年末までに、東南アジア、台湾、中国、朝鮮半島南部居住民の9割が引き揚げを完了。

昭和22年(1947年)

22年末までにソ連軍管区以外の陸海軍兵士の復員がほぼ完了。

 

昭和23年(1948年)

5月 引き揚げ事業が一段落したのを機に、復員局と引揚援護院は一体となって引揚援護庁という厚生省の外局となった。これに伴い地方引揚援護局はすべて閉鎖される。

引揚者団体全国連合会が発足。

昭和24年

01月09日 佐世保にボゴタ丸が入港。フィリピンより日本人将兵4,515人の遺体と300余柱の遺骨を運ぶ。1ヶ月をかけて野天で火葬される。身元不明の遺骨300は、そのまま埋葬される。

6月27日 ソ連からの帰還者を乗せた高砂丸が到着。乗船者2千名は”インターナショナル”を歌いながら入国する。

24年末までに軍人軍属を含む624万人が帰還を完了。その後、朝鮮戦争の開戦により聞こk事業は停滞。

昭和25年

4月 ソ連の捕虜抑留の実態が明らかになる。国会は「在外抑留同胞引揚に関する決議」を採択し国連に提訴する。国連は捕虜特別委員会を設置。

昭和27年

12月 北京放送、中国在留の日本人3万人の帰還を援助すると発表。

昭和28年
3月5日 北京協定が締結される。「日本人居留民帰国問題に関する共同コミュニケ」発表。

3月23日 中国からの帰還が再開される。第一船は興安丸、第二船は高砂丸で合計3968人。

中国帰還者

11月19日 日ソ赤十字会談。「日本人捕虜の送還に関する共同コミュニケ」を発表。

11月26日 興安丸、ソ連からの再開第一次引揚船として舞鶴を出港。

昭和29年(1954年)

3月31日 厚生省の引揚援護庁が廃止される。

昭和30年(1955年)

6月 日ソ国交回復交渉が開始。日本はシベリヤ抑留者全員の即時帰国をもとめる。

昭和31年

7月 中国からの釈放日本人戦犯335名が興安丸で舞鶴に入港。

10月 日ソ共同宣言・通商議定書調印、抑留者全員の釈放が決定される。

12月26日 興安丸最後の便が舞鶴港に入港。シベリヤ抑留者の最終集団が帰国。

日ソ国交回復により、樺太の日本人約800人とその朝鮮人家族約1500人が集団帰国 

 


引揚げ関係年表として下記を参照した。

引揚関係年表(全般)

引揚関係年表・昭和21年

引揚関係年表・昭和22年

ウィキペディアの以下の事項を参照した。

引き揚げ

引揚者

引揚援護庁

地方引揚援護局

在外父兄救出学生同盟

栄丸遭難事件

三船殉難事件 小笠原丸 第二号新興丸

葫芦島在留日本人大送還

興安丸 高砂丸

引揚者団体全国連合会