戦後引き揚げを勉強してみて、いくつか初めて分かったことがある。
第一に、これはすさまじい大作戦だったということだ。

終戦時海外にいた日本人は、軍人350万人、一般邦人310万人であった。その殆どを昭和21年末までにほぼ引揚完了させている。ソ連軍管区はやや遅れたものの、その後の1年の間にほぼ帰還を完了させている。

わずか1年半足らずの間に500万人以上の移動をやり遂げたのだ。当時の交通状況を考えれば、驚異的な数字である。ある意味で「史上最大の作戦」とも言える規模だ。

まずこのことに我々はもっと関心を抱くべきであろうと思う。

第二に、これはアメリカによる準軍事作戦だったということだ。

虚脱状態にある日本政府に、そのようなことができようはずはない。キャパもなかったし、やる気もなかったろうと思う。

その尻を叩いてやらせたのはアメリカである。しかもポツダム宣言の最重要課題として、軍事作戦並みの厳しさでそれを遂行させた。そのための資材も惜しみなく与えた。返還を渋る国があれば頭越しに直接交渉して、返還交渉をまとめ上げた。だから出来たのである。

我々は氷川丸や高砂丸、興安丸の活躍ぶりを知っている。しかし少し計算してみればわかることであるが、一回の搬送人員が数千人として、三隻で1万人だ。600万人運ぶにはそれぞれが600回往復しなければならない。

氷川丸など修理続きで、せいぜい5,6回往復しただけでお役御免になっている。つまり引揚者の大多数は米軍のリバティー船やLSTで帰ってきたのだ。

第三に、600万人もの「難民」を一気に受け入れさせられた側の受け入れ能力である。

あのドイツでさえ東西統一のあと東ドイツを持て余した。東ドイツは想像以上に貧しかった。なんとか経済的に受容したが、10年はかかった。

日本は敗戦直後で居住者でさえ食うに事欠く状態だ。そこに突如600万人の「よそ者」が裸同然で飛び込んできたわけだ。我が家でさえ、4人も居候が転がり込んできた。祖父、叔父、叔母、それと未だに何だったのかわからない人が一人いた(まもなくいなくなったが)

それがなんとか飢え死にしなくて済んだのは、直接的には配給と闇屋のおかげだが、より根本的には日本にまだ余力があったからだ。本土決戦をやらなくて済んだおかげだ。(沖縄の人には申し訳ないが)

その余力がどこにあったのかは今後の検討課題である。しかし「国破れて山河あり」という時の山河は、この場合、ただの自然ではなく人的資源やノウハウの蓄積を含めた「隠れ資産」と見るべきであろう。


他にも未だあるだろうが、言いたいことは「戦後引揚」を社会現象とか恨みつらみとしてみていたのでは本質を見誤るということだ。

我々は(正確には“私”は)、「引き揚げ」というとどうもナホトカから興安丸に乗って舞鶴に着いた抑留者のイメージを抱きがちだが、あえて言えばそれは「落ち穂拾い」であり、引き揚げの大部分はそれよりずっと前、終戦直後から1年半から2年のうちに集中していたということを銘記しておくべきであろう。