我々が「興安丸」というと舞鶴、ナホトカ、抑留者ということになるが、実はその前に引揚船として大活躍していた。

そのことを今回はじめて知った。

興安丸の活動の歴史は大きく3つに分かれる。

最初は昭和12年から敗戦までの間で、その間は関釜連絡航路の新鋭船として活躍した。

第二期は敗戦から昭和23年までで、この時期は引揚船として釜山と日本の間をピストン輸送した。

これが終わったあと、いったん民間に払い下げられたが、朝鮮戦争が終わったあと、引揚が再開されると、昭和28年からふたたび引揚船として活躍した。往復の回数は延べ22回に及んだ。

これが舞鶴、ナホトカ、抑留者ということになる(ナホトカだけでなく天津、の秦皇島、樺太のホルムスクにも往復している)。道理で私が憶えているわけである。田端義夫ではなく「岸壁の母」の時代だ。

昭和31年末をもってシベリア抑留者の帰還が終わり、それとともに引揚船としての興安丸の時代は終わる。(その後昭和34年にベトナムからの帰還者受け入れのためハノイにも往復している)

その後幾多の変遷を経て、最終的には昭和45年に解体されて一生を終える。

ということで、仙崎の引揚者の話はこの第二の時期に相当するわけだ。


興安丸と仙崎には因縁話がある。

昭和20年4月、興安丸は下関沖で機雷に触れ損傷した。その後、興安丸は長門須佐湾に避難し、8月の終戦まで潜んでいた。

終戦後興安丸はふたたび航路についたが、それは仙崎・博多・釜山を結ぶ三角航路だった。なぜ戦前のごとく下関・釜山でなかったのかはよく分からない。佐世保と同じで帰還者の収容施設の関係だったのかもしれない。