も、だいぶ実像とのズレが生じてきた。

今回、補筆改訂する。


なお、このレビューはピアノ小曲をあれこれ聴き比べながら作成したもので、作者の全体像は必ずしも浮かび上がって来るわけではない。最初にそのことをお断りしておく。

1.19世紀後半のロシア音楽界の概括

19世紀後半のロシア音楽の発展は、ヨーロッパ的なものとロシア的なものの相克の中で発展していった。

それはグリンカがロシア的なものを追求し始めたことから始まった。

アントン・ルビンシュタイン(以下アントン)のヨーロッパ基準の導入は、ロシア的なものを追求する流れと激しく衝突した。

それは、とくに5人組側で、主観的には「ロシア国民音楽はいかにあるべきか」をめぐる論争であったが、客観的には「何をなすべきか」の論争ではなく、「何から始めるべきか」をめぐる論争であった。

この衝突は数年後にアントンが撤退することで終了するのだが、アントンが提唱した音楽活動の近代化、プロフェッショナル化の方向はロシア派にも受け入れられた。

同時に、アントン派の中にも古典的な形式の中にロシア的なものを追求する流れが生み出された。

この二つの流れは1870年代後半には、事実上合流した。これを代表するものがチャイコフスキーであった。ロシア派の最後の担い手であったムソルグスキーは早逝し、バラキレフは長い沈黙に入った。

80年代を通じてチャイコフスキーはとくにヨーロッパで大活躍したが、その間にロシア国内では新しい波が訪れて、リャードフ、アレンスキー、グラズノフ、タネーエフらが次々と登場した。それはラフマニノフとスクリアビンによってピークに達する。

それらを束ねたのはR.コルサコフであった。そしてそれに財政的支援を与えたのは王侯貴族ではなく、ベリャーエフという新興の富豪であった。一方、ロシア音楽のヌーベルバーグを形作った作曲家たちの多くは、没落しつつある下級貴族の子弟であった。

ここにロシアの音楽論争の深い根があったと思われる。

 

2.西欧音楽への憧憬とグリンカ

1840年にチャイコフスキーが生まれている。バラキレフはその4年前だ。Rコルサコフはその4年後だ。彼らが青年期に達したときがロシア音楽の激変期となるのだが、それには40年から50年にかけての胎動期を見ておく必要がある。

この頃のロシアの音楽界は貴族を中心としたサロン音楽とオペラが中心で、演奏家も素人に毛が生えた程度の水準だったようだ。しかし西欧音楽への憧憬は強かった。次から次へと西欧の音楽家がやってきて公演していた。

要するにヨーロッパ人音楽家の草刈り場であったわけだ。

その中から、西欧に出て名前を上げる演奏家もポツポツと現れてきた。その代表がグリンカとアントン・ルビンシュタインで、彼らの曲は西欧でも評価されていた。

42年にはグリンカのオペラ「ルスランとリュドミラ」が初演されている。しかしロシア人の曲をロシア人は喜ばなかった。国内のマーケットは外国人で満たされていた。

このような状況に気落ちしたグリンカは40年代末には作曲活動を辞めてしまった。

今日ではグリンカのピアノ曲のほとんどをYou Tubeで聞くことができる。率直に言えば「ロシア民族音楽の始祖」と言うには程遠い。バラキレフが一生懸命かつぎあげた結果とも言える。

 

3.観念的運動としての「ロシア民族音楽」

最初、「ロシアの民族性」の考えは文学の世界からもたらされた。私は詳しくないので孫引きに留めるが、チェルヌイシェフスキーが「国民芸術論」を提唱し、これが音楽界、とくに若手音楽家に多大な影響をもたらしたようである。

彼は「芸術の現実に対する美的関係」を著し、「国民芸術」を称揚した。しかし「芸術の主題は知性の抽象ではなく客観的に観察し得る現実である」とのべ、技巧や形式を否定したともとられかねないところがある。

おそらく、彼は「芸術」の階級的側面を強調したかったのであろう。王侯貴族のサロンにおける美辞麗句を連ねた詩作ではなく、「民衆の生の声」で歌えということなのだろうが、これをそのまま音楽の世界に持ち込むにはいろいろ問題がある。

まず第一に音楽というのは作り手とともに演奏家が不可欠であり、それには必ず一定の修練を必要とすることである。もっと深刻なのは、音楽の世界ではそもそも「民衆の声」を語るほどに基礎ができていないということだ。

ということで、まずは実作活動から育て上げていかなければならない。

それに挑戦したのがバラキレフだ。

彼は52年にカザン大学に入学。専攻は数学だった。地元でアマチュア・ピアニストとして腕を上げたバラキレフは、音楽家で身を立てようとペテルブルクに出てきた。
kazan
ロシア連邦内のタタールスタン共和国の首都。ウラル山脈の西、ボルガ川中流域に位置する。スンニ派のトルコ系タタール人が人口の約53%、ロシア人が約40%を占める。いずれにしてもド田舎だ。

彼は早速、ひそかに師と仰ぐグリンカの元を訪れた。バラキレフと面会したグリンカは、バラキレフを後継者と評価したという。

当時すでにグリンカは引退しており、ロシア民族音楽を熱く語るバラキレフに心揺るがされかもしれない。バラキレフをそれとなく焚き付けた可能性もある。

後述するが、同じ年ウィーンにいたアントンは、「グリンカなどのロシア国民音楽の試みは失敗した」と述べている。グリンカにはそのことが念頭にあったとも考えられる。

55年、バラキレフは「国民音楽」を主張する評論家スターソフとともに「グリンカが残した国民主義的音楽の継承・発展」を提唱。「新ロシア楽派」を形成した。

そして実作に取り組むべく仲間を誘って勉強会を始めた。これが「五人組」の基礎となる。最初に参加したのはキュイとムソルグスキーであった。彼らはグリンカだけでなくシューマン、ベルリオーズなど後期ロマン派の作品のスコアを徹底して解析した。他の二人は当時はまだ素人同然であり、実際にはバラキレフが手を取り足を取り教えたらしい。

 

4.アントン・ルビンシュタイン旋風

時期が重なっていてわかりにくいが、さまざまなできごとをパズルのようにはめ込んでいくと、どうも僅かながらバラキレフの動きが先行しているようだ。

つまりアントンがいろいろ動いて、それに対するアンチテーゼとして五人組が登場したのではなく、きわめて萌芽的ながら、バラキレフたちが「ロシア民族音楽」の形成をもとめて動き始めたところに、ドカンとアントン旋風が襲来したというのが正確なようだ。少なくとも本人たちの気持ちはそうだった。

アントンは若いときから海外で演奏旅行を続けていた。リストの知己を得てドイツ圏内ではかなり名を挙げていた。その風貌から「小ベートーベン2世」と噂されたこともあったようだ。

1848年にドイツを中心に2月革命が起きると、彼はロシアに戻った。彼は宮廷ピアニストに招かれ、一躍ロシア音楽の一人者となった。オペラも上演するが、このオペラをめぐり「国民音楽」派の論客スターソフとの論争になる。

アントンは革命の鎮静を待っていったんドイツに戻るが、この滞在でかなりファイトを掻き立てられたらしい。

彼はウィーンの音楽雑誌にロシアの音楽状況に関して寄稿した。「①ロシア民謡はただ悲しいだけで単調である。②グリンカなどのロシア国民音楽の試みは失敗した。③ロシア民謡を取り込もうとすることが失敗の元となっている」と書いた。

この文章がロシア国内に激しい反発を呼んだのは当然であるが、それはもとより承知の上だ。

アントンの主張にはもう一つの側面があった。それはワーグナーなど後期ロマン派を評価せず、ソナタ形式や和声法・対位法を無上のものと捉える傾向があった。この点では彼は頑固だった。リストと対立することさえ辞さなかった。

それから10年経った1858年、アントンはベルリンでの成功を引っさげてペテルブルクに乗り込んできた。彼はペテルブルクの雑誌に寄稿。ロシア音楽界のオペラ偏重やアマチュア主義を非難。国内音楽水準の向上のためにプロの音楽家養成の必要性を訴えた。

彼はまず自宅に支援者を招き毎週のように演奏会を開いた。回を重ねるうちに参加者の中心メンバーの中からロシア音楽協会設立の機運が盛り上がった。なかなか巧みな作戦である。

音楽協会はコンサート向けの楽団を組織、アントンの指揮で定期演奏会が始まった。演奏会ではキュイの「スケルツォ」も初演されるなど、それなりの気配りもしている。

ついで彼は音楽学校の設立を目指した。音楽文化の建設には高等音楽教育が不可欠だと主張し、大公妃エレナ・パヴロヴナの賛同を得た。

大公妃の宮殿の一部を借り音楽教室を開校しプロ音楽家の養成に着手した。こうして62年にはサンクトペテルブルク音楽院が設立されることになる。

アントンは教師に外国人を起用した。ピアノ科教授にはポーランド人のレシュテツキを招聘した。この人事はなぜか5人組を痛く刺激したようである。

 

2.国内音楽家の反発と5人組

アントンの主張は二面性を持っている。ロシア音楽界の技術水準の向上を目指すのは正しいのだが、やはり上から目線になっている。そして音楽を「高尚」な芸術として高みに持って行こうとする。

小説でも文法は必要なのだが、何をもって「高尚」と成すかは人それぞれである。アントンは余分な議論を持ち込んだ。

それに対して、バラキレフやスターソフが一斉に反発した。技術の問題はさておいて、「グリンカが残した国民主義的音楽の継承・発展」を強く主張しアントンに対抗した。

言い分そのものはまことにもっともであるから、この若者集団は大いに注目を集め、アントンの対抗馬と目されるまでになった。ボロディンとRコルサコフが加わるのもこの頃のことである。

その背景にはクリミア戦争の敗北と新国王アレクサンドル2世による農奴解放(61年)などの国政改革により、国内に自由で進歩的な空気が広がり、既成の枠を飛び出したいという欲求が広がっていたことが影響している。

ただしこのあたりは政治史の話になるので詳述は避ける。

いずれにしても、一方における宮廷内改革、他方における大衆レベルの改革があり、「主義主張は異なれど、どっちも頑張れ」ということだったのではないだろうか。

時代の寵児となったバラキレフは篤志を募り無料音楽学校を設立した。音楽学校にはオーケストラが併設され、バラキレフが指揮者となって定期演奏会を開始した。

この無料音楽学校というのは、いまでいえばベネズエラのエル・システマみたいなもので、年齢・性別・職業の制限はなく、優れた声や音感に恵まれながら経済的な理由などにより音楽の勉強手段を持たない人々を広く受け入れた。毎週日曜日に開校され、ペテルブルク大学医学部の空き教室を利用して開かれた。

学生から選抜されたメンバーで合唱団とオーケストラが編成された。ロマーキンが合唱団を指導し、バラキレフはオーケストラを指揮した。

63年からは定期演奏会を開くほどになり、グリンカや5人組の曲の他、ベルリオーズやリスト、シューマンなどの新作を紹介した。最盛期には音楽院管弦楽団と人気を二分した。(ウィキより)

バラキレフ・グループは「小さいけれども、すでに力強いロシアの音楽家の一団」と称えられた。評論家のスターソフは、この作曲家集団を「五人組」と名付けた。

 

3.「国内音楽家」の実態

当時の国内音楽家の多くは、まさにアントンの言う「職業的訓練を積んでいないアマチュア集団」であった。ただアントンが批判しているのは「アマチュア主義」であって、その底にアントンは「作曲家の社会的地位の欠如」を見ていたのである。

「音楽界」という世界は、出来上がったものではなく、いわば無人の野であった。そこに畑を開くのか水田を作るのか、いずれにしても食べていける世界を作らなければならない。楽徒が育っていくのは、その次の世代である。

ここで私は、アマチュアの大量進出の基礎に下層貴族の社会進出という側面を見て置かなければならないと思う。アレクサンドルの農奴解放は下層貴族の没落をもたらした。

同時に、社会ヒエラルキーの中層に固定されて一生を送っていた人々が、社会教育の発展により別の道を与えられ、ペテルブルクという活躍の場を与えられることで表舞台に飛び出してきた。そういう時代として見ておかなければならないと思う。

たとえば、チャイコフスキーが入学したペテルブルク音楽院の第1期生は179人。税関の官吏、予審判事補佐、技術士官、近衛連隊の中尉などさまざまな経歴を持っていた。グルジア人やイギリス人も含まれていたという。

 

4.アントンの辞任と5人組

二つの学校の対抗と並立は67年まで10年にわたり続く。そしてアントンの突然の辞任をもって幕を閉じる。

辞任の理由には5人組からの攻撃もあっただろうが、主要にはパトロンたるロシア王室の無理解であった。王室は音楽院の教師や生徒たちを夜会で演奏させるなど、自分の使用人のように扱ったそうだ。これではハイドン時代だ。100年遅れている。

よくもアントンは四面楚歌の中で10年も頑張ったものだと感心する。

アントンがやめれば、彼の連れてきた外国人教授陣もいなくなる。こうしてペテルブルク音楽院は空き家状態になってしまった。

ドイツに戻ってしまったアントンに代わり、バラキレフが音楽監督に就任した。5人組が指導スタッフに参加する。形としては5人組がペテルブルクを制圧したように見える。しかし事態は逆であった。

しかしアントン辞任の原因となった王宮との関係は依然そのままであった。バラキレフはその非妥協的な性格から王室と衝突した。そして1年後には解雇されてしまう。

もっとも非妥協的なチェルヌイシェフスキー主義者であったムソルグスキーは、農奴解放後に実家が没落し、官僚の道もひらけず、バラキレフからは批判され、アルコールにひたるようになる。

69年に完成した歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」は、思想性を理由に帝室劇場から上演を拒否された。71年にはついに無一文となり、Rコルサコフのもとに転がり込んで居候となる。

ボロディンとキュイには本業があった。残されたのはもっとも若いリムスキー・コルサコフのみであった。この頃、自由主義改革は終わり反動化の時代へと移行していく。

お互い切磋琢磨していた二つの音楽団体であったが、バラキレフがペテルブルク音楽院に移動したことにより、無料音楽学校の存在意義は薄れた。

1870年、バラキレフが音楽院を解雇された翌年、今度は財政難から無料音楽学校での連続演奏会が中止された。両腕をもがれたバラキレフは音楽活動ができなくなってしまう。

72年になるとさらに状況は悪化。経済的に困窮したバラキレフは、ワルシャワの鉄道会社の事務員となり、ペテルブルクを去る。

ただし無料音楽学校の演奏活動は止まったわけではない。何とかかんとか生き延びた。皮肉なことに、1917年にロシア革命が成立した時、革命政権がこれを解散させたのである。

5人組は「5人」のまま発展を止めてしまった。このあとも長期にわたり5人組の人脈は生き続けるが、思想としての5人組はほぼ終わりを告げたと見るべきであろう。

残されたRコルサコフはどうなったか。

バラキレフのいなくなったあとのペテルブルク音楽院は、アザンチェフスキーが院長となった。アザンチェフスキーは民族主義者ではなかったが、リベラルな近代主義者であった。

彼は民族派音楽にも配慮した。彼の下で現代派の旗頭チャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」がとりあげられた。そして76年にはついにいわくつきの歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」が上演されるに至ったのである。

彼は作曲と管弦楽法の教授をRコルサコフに依頼した。大抜擢ではあるが、Rコルサコフは困惑してしまった。モスクワのチャイコフスキーにまで相談を持ちかけたという。

後年の述懐によれば、「私はコラールの旋律に和声をつける事もできず、対位法そのものは1つも書いた事がなく、フーガの構造についてはおぼろげな概念さえ持っていなかった

 

5.チャイコフスキーは何をしていたか

チャイコフスキーは何をしていたか。実はこの間のゴタゴタを見事にすり抜けたのだった。

私はへそ曲がりだから、チャイコフスキー崇拝者がやるような無条件な賛美などするつもりはない。人前では虫も殺さぬ顔をしながら、ニコライ・ルビンシュタインがピアノ協奏曲の発表を邪魔したとか、アウアーがバイオリン協奏曲を悪しざまに罵ったとか手紙に書き綴るのは好きではない。

しかし彼の成し遂げた最大のこと、①ヨーロッパの最新の作曲技術を取り込みつつ、その上にロシア的なものを乗せて「ロシア国民音楽」を作り上げたこと、②その過程で標題性と叙情性という形で音楽の主題を把握したこと、は賞賛に値すると思う。

まず抑えておかなければならないのは、彼が稀代の秀才であったということである。ウラル山麓の鉱山町の役人の息子であったチャイコフスキーは、一家の将来を担い、ペテルブルクの法律学校に入学した。

この学校は東大法学部なみの難関で、卒業すれば半ば自動的に中央官庁のキャリア官僚になる。本当の金持ちは別な学校に行く。

彼も59年に卒業後法務省に入省、62年には早くも課長となっている。

しかし出世はそこまでだった。官僚の世界は地位が物を言う激烈なポスト争いの世界である。そこで生き抜いていく資質は、頭の良さとは別のものである。

入職後の成績は芳しくなかった。二度にわたり昇進を逃し、街頭を彷徨する日々を送っていた。家族への手紙で「すべてが不愉快だ。仕事もうまくいかないし、金もない」と書いている。

そんな中で61年、彼はロシア音楽協会の教室に聴講生として参加した。バラキレフと違って学生時代からミュージシャンとして活動していたわけではない。せいぜい学生合唱団に加わっていたという程度である。

おまけにその合唱団の指揮者はロマーキンであり、いまは無料音楽学校の指導者である。どうしてそちらに行かなかったのか。

想像するには、勤務先の法務省と音楽教室のあった大公妃の宮殿が近かったからではないか。それとたかが学生合唱団の一団員と指揮者の間にそれほどの義理があるとも思えない。

とにかく何気なしに入ったのであろうが、音楽はチャイコフスキーを一瞬にしてとりこにしたようだ。

翌年、音楽教室がペテルブルク音楽院に発展して、第一期性を募集した時、チャイコフスキーは躊躇なくエリート官僚の職をなげうって入学することになる。

ここでチャイコフスキーはアントンや外国人教師からみっちりと音楽の基礎を叩きこまれた。そして65年に卒業している。

シューベルト、シューマン、メンデルスゾーンをモデルとする保守的なアントンの先を行き、ベルリオーズ、リスト、ワーグナーの管弦楽法をも習得した。おまけにそのメトードで「序曲」を作ったことで、アントンは怒ったという。

やがて卒業という頃に、アントンの弟ニコライ・ルビンシュタインの訪問を受ける。モスクワ音楽教室の開設を準備中だったニコライは、教授を探してペテルブルグへやってきた。そして卒業作品を準備中のチャイコフスキーを見つけ口説いた。

すでにアントンは辞任の方向に動いていたし、その後の見通しも怪しげだということだったのだろう、チャイコフスキーはモスクワ行きを承諾した。この時チャイコフスキーはすでに26歳、一廉の処世術は身につけていた。


6.モスクワ音楽院という微妙な立ち位置

チャイコフスキーはみずから都落ちしたわけだが、果たしてそれに成算はあったのだろうか。法律学校を優等で卒業した人だ。それなりの計算があったはずだ。

まずデメリットを考えてみる。第一に西欧からはさらに離れる。第二に、それなりに音楽の中心である首都ペテルブルクからも離れる。第三に王室の援助は期待できず、モスクワの有力者にペテルブルクほどの資力もない。第四に組織者のニコライは、それなりに有名なピアニストではあるにしても兄アントンほどのカリスマ性はない。第五に、できたばかりの学校にどれほどの人材が集まるのかも分からない。優秀な人材はペテルブルクに行ってしまうだろう。

当時すでにチャイコフスキーはロシア随一の音楽理論家であった。彼にとってモスクワは、器としてはいかにも小さいのである。

チャイコフスキーはアントンの愛弟子と見られていて、それがアントンの辞任と時を同じくして弟ニコライの創設した学校に移るのだから、それが5人組の目にどう映るかという問題もある。

しかしチャイコフスキーを囲む状況はどんどん変わっていく。

まずバラキレフがチャイコフスキーに接触した。弦楽四重奏曲の作曲を勧め、第二楽章のアンダンテ・カンタービレにロシア民謡を用いるよう提案した。

バラキレフは60年に故郷のボルガ地方で、62年にはさらにコーカサスまで足を伸ばして民謡を採譜している。しかし膨大な資料を彼一人では使いこなせなかった。そこでアントン門下のチャイコフスキーに触手を伸ばしたのだ。

ペテルブルク音楽院に残ったリムスキー・コルサコフは、それまで音楽や作曲についての教育を受けたことがなく、就任後に和声法と対位法を学び始めた。この時、チャイコフスキーに相談し、助言を受けたと伝えられている。

もちろん、チャイコフスキー自身の能力が高かったからこそ状況が開かれたのだろうが、いずれにしてもチャイコフスキーに追い風が吹き始めたことは間違いない。


補.ピアノ協奏曲第1番の意義

しかしいくらチャイコフスキーが国内での影響力を強めたからといっても、所詮井の中の蛙、いつかは大海に漕ぎ出さなければならない。

その契機となったのがこの曲だろう。

この曲については必ずニコライが演奏を拒否してハンス・フォン・ビューローが成功させたというエピソードがついてくる。

これだけが取り出されて何度も何度も刷り込まれると、「あぁそうだったのか」と誰でも思ってしまう。しかし前後の関係から見ると、どうもこの話は素直には受け取れない。それを抜きにして考えてみよう。

なぜこの曲が成功したのか。結果的にはチャイコフスキーがモスクワもペテルブルクも乗り越えて、ハンス・フォン・ビューローに直接アタックして、それに成功したという事実が浮かび上がってくる。

ではなぜ天下のハンス・フォン・ビューローが、どこの馬の骨とも分からないチャイコフスキーという輩の曲を取り上げたか。私の推測では一つには国内に良い曲が枯渇していたこと、一つはロシアという異国趣味がマーケットに受け入れられるだろうという勘が働いたのではないかと思う。

興行的に見ると、クラシック音楽の市場は交響曲(コンサート)とオペラの間を行ったり来たりしている。ところが交響曲の方はシューマン、メンデルスゾーンで一服してなかなか次の演目が出てこない。ブラームスが孤軍奮闘しているが、いささか渋い。

一方、オペラの方はワーグナーが登場して次々とヒットを飛ばしていく。ハンス・フォン・ビューローに取っては面白くない時代である。

そこに西欧音楽の文法をしっかり踏んで、異国情緒を醸し出す手練手管にも熟達した作曲家が出てくれば大歓迎である。コンチェルトという「イロモノ」であれば、コンサートでの座りもいい。