ウィキペディア「ロシアのクラシック音楽史」

国本静三「チャイコフスキーの生涯」

中林 曜子「チャイコフスキー≪ピアノ三重奏曲≫作品50について」

からの出典を重ねています。煩雑化を防ぐため、アントン・ルビンステイン、バラキレフ、チャイコフスキー、リムスキー・コルサコフの4人に焦点を絞っています。(2016年12月1日 増補)


1840年 チャイコフスキー生誕。生地はウラル山脈西麓の鉱山町。父は製鉄場の監督官。

1842年 グリンカのオペラ「ルスランとリュドミラ」が初演。イタリア・オペラの席巻するロシア国内よりも、むしろ国外(フランス)で注目される。

グリンカは五人組によって「国民主義的音楽の嚆矢」ともてはやされたが、今日では多分に疑問とされている。
1848年 チャイコフスキー。父の失職によりペテルブルグに出る。半年後に職を得て田舎に戻る。

1851年 チャイコフスキー、ペテルブルグの法律学校に入学。ここは超エリート学校で、1835年に作られた。主に中流以下の貴族家庭の子弟が学んだ。

1852年 バラキレフ、カザン大学に入学。数学を学ぶ。

1855年 アレクサンドル2世が帝位を継ぎ、自由主義的「大改革」を開始する。

1855年 アントン・ルビンシュタイン(以下アントン)、ベルリンでピアニストとして名声を博す。ロシア音楽界のオペラ偏重やアマチュア主義、職業的訓練と社会的地位の欠如を批判。

1855年 チェルヌイシェフスキーが「芸術の現実に対する美的関係」を発表。「芸術の主題は知性の抽象ではなく客観的に観察し得る現実である」とし、形式的技巧を否定する。

1855年 バラキレフ、グリンカと会い音楽家となることを決意しカザン大学を退学。サンクトペテルブルクに出て、音楽集団の組織化と理論化に着手。

「力強い一団」グループへの加盟はキュイ(55年)、ムソルグスキー(56年)、リムスキー・コルサコフ(61年)とボロディンはやや遅れて63年となる。

1856年 バラキレフ、アントンの改革案に反発。チェルヌイシェフスキーの影響を受け、「グリンカが残した国民主義的音楽の継承・発展」を提唱。「新ロシア楽派」を形成する。

1858年 アントンが帰国。宮廷(とりわけ大公妃エレナ・パヴロヴナ)の支持を受けロシア音楽協会を設立。自ら芸術監督となる。

1858年 アントン、音楽文化の建設には高等音楽教育が不可欠だと主張。プロ音楽家の養成に着手。

教師に外国人を起用し在来作曲家を排除。これに対しバラキレフを指導者とする5人組は激しく反発した。
1859年 キュイの「スケルツォ」がアントンの指揮で初演される。

1859年 チャイコフスキー、法律学校を卒業し、そのまま法務省にキャリア組として奉職。(この頃からゲイの傾向が明らかになる)

作曲家への転進

1861年 アレクサンドル2世による農奴解放などの改革が始まる。下級貴族や小荘園主には大きな打撃となる。

1861年 チャイコフスキー、ロシア音楽協会の教室に聴講生として参加。

1861年 海軍兵学校の学生だったリムスキー・コルサコフがバラキレフのサロンに加わる。最初は弟分の扱いで、本格的に作曲活動を行うのは、長い航海を終えた1865年のことになる。

1862年 ロシア音楽協会を母体としてサンクトペテルブルク音楽院が設立される。チャイコフスキーは法務省課長のまま入学。

一期生は179人。税関の官吏、予審判事補佐、技術士官、近衛連隊の中尉などさまざまな経歴を持っていた。グルジア人やイギリス人も含まれていた。

1862年 バラキレフらがペテルブルグ音楽院に対抗して無料音楽学校を設立。学校にオーケストラを組織して、自身とそのグループの作品を演奏する。バラキレフ自身はオペラに関心を示さなかった。

1863年 ボロディンがバラキレフのグループに参加。この人は稀代の秀才で、サンクトペテル大学の医学部を首席で卒業。この年30歳で早くも母校の教授に就任している。

1863年 チャイコフスキー、法務省の職を辞して音楽に専念する。

最初の対立

1864年 チャイコフスキー、「雷雨序曲」を制作。ベルリオーズ、リスト、ヴァーグナーの管弦楽法を取り入れた曲は、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーンをモデルとする保守的なアントン院長の不興を買う。

チャイコフスキーの伝記は酷評、演奏不能などのオンパレードである(とくにウィキペディアの記載) しかしなぜ酷評を受けたのかの説明は殆どない。これでは少女漫画の世界である。
1865年 チャイコフスキー、音楽院を卒業。卒業作品「歓喜に寄せて」は5人組の一人、キュイから酷評される。

ただキュイというのは狷介かつ剣呑な批評家で、いたるところで筆禍事件を起こしている。したがって、その批評に不快感を催したとしても、ショックを受けるほどのものではない。問題はその背景に、アントン対バラキレフの対立があったか否かである。
1865年 ムソルグスキー、農奴解放で実家が没落し、官僚の道もひらけず、母の死を機にアルコールにひたるようになる。

1866年 アントンの実弟ニコライ・ルビンシュタイン、兄に真似てモスクワ音楽院を創立する。ニコライはアントンとは異なり、5人組との交流もあった。

1866年 チャイコフスキー、アントンの実弟ニコライ・ルビンシュタインの招聘を受け、モスクワに赴任。

モスクワ音楽教室の開設を準備中だったニコライは、教授を探してペテルブルグへやってきた。そして卒業作品を準備中のチャイコフスキーを見つけ口説いた。(中林)
1867年 モスクワでバラキレフがスラヴ音楽の演奏会を組織。「小さいけれども、すでに力強いロシアの音楽家の一団」と称えられる。

1867年 スターソフ、バラキレフを中心とした作曲家集団を「五人組」と名付ける。

1867年 アントン、ロシア音楽協会とサンクトペテルブルク音楽院のすべての仕事から撤退しロシアを去る。

アントンは、パトロンの大公妃が教師や生徒たちを夜会で演奏させるなど自分の使用人のように扱うのに耐えられなかったとされる。

1867年 ロシア音楽協会は監督としてバラキレフを指名。アントンとの闘争は5人組の完全勝利に終わる。

1868年 モスクワのチャイコフスキー、ペテルブルクのバラキレフとの直接交流を始める。

バラキレフはその非妥協的な性格から大公妃と衝突した。またムソルグスキーとリムスキー=コルサコフは干渉を拒否した。その結果としてバラキレフはモスクワのニコライとチャイコフスキーに接近した。

1869年 バラキレフ、ロシア音楽協会の音楽監督を解雇される。

1869年 チャイコフスキー、モスクワ音楽院で使う理論書を執筆、西欧の理論書の翻訳も手掛ける。民族主義的な作品も手がけるようになる。出版業者ユルゲンソンの示唆によると言われる。

1870年 バラキレフ、財政難から無料音楽学校での連続演奏会を中止する。

1871年 ミハイル・パプヴロヴィッチ・アザンチェフスキーがペテルグルグ音楽院の院長に就任。音楽院のカリキュラムを近代化し、作曲科の教師にリムスキー=コルサコフを招請。

アザンチェフスキーはチャイコフスキーの『ロメオとジュリエット』やムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』を上演するなど、進歩的音楽を擁護した。その結果、無料音楽学校での連続演奏会の意義は薄れたという。
1871年 ペテルブルク音楽院の作曲と管弦楽法の教授にリムスキー・コルサコフが就任。リムスキー・コルサコフは路線転換にあたりモスクワのチャイコフスキーと相談したという。

私はコラールの旋律に和声をつける事もできず、対位法のものは1つも書いた事がなく、フーガの構造についてはおぼろげな概念さえ持っていなかった。(後年の述懐)

1871年 リムスキー・コルサコフ、文無しのムソルグスキーを呼び、家具付きの部屋を借りて2人で共同生活を始める。
1871年 チャイコフスキー、弦楽四重奏曲第1番の第二楽章(アンダンテ・カンタービレ)にロシア民謡をとりあげる。バラキレフの示唆を受けたものとされる。
バラキレフとの交流がルビンシュタイン兄弟との葛藤を生んでいた可能性がある。
1871年 それまでニコライの家に寄寓していたチャイコフスキー、家を出てアパートに居を移す。
1872年 経済的に困窮したバラキレフは音楽界を退き、鉄道の事務員の職に就く。

1873年 大公妃エレナ・パヴロヴナが死去。ロシア音楽協会とサンクトペテルブルク音楽院はロシア政府の経営となり、大公妃への依存から脱する

1874年 ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」が初演される。1870年に初稿が完成していたが、帝室劇場の管理委員会は上演を拒否していた。

1874年 リムスキー・コルサコフ、バラキレフの引退後空席となっていた無料音楽学校の管弦楽団の音楽監督となる。

1875年 チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番が完成。ニコライに献呈するが、ニコライは「この作品は陳腐で不細工であり、役に立たない代物であり、貧弱な作品で演奏不可能である」とスターリンばりの罵詈雑言。

これもどう考えても単純な話ではない。
ニコライは10年前、卒業したてのチャイコフスキーをモスクワに招き、自宅に住まわせ、ともにモスクワ音楽院の創設期を担った人物である。何かウラがあると見なくてはならない。
ニコライに曲を弾いて聞かせたのが74年のクリスマスイブ。この時にニコライから批判されている。しかし1年足らず後の11月には、この曲がニコライの指揮でモスクワ初演されている(ピアノはタネーエフ)。
78年には、ニコライが死んで絶望する夢を見たことと、彼に強い愛情を感じていることを書き記している。
1875年 ドイツのピアニストのハンス・フォン・ビューローにピアノ協奏曲の楽譜を送る。ビューローの演奏により西欧各地で大ヒット。チャイコフスキーはロシアを代表する作曲家として知られるようになる。
前後の脈絡からすると、これはチャイコフスキーにとってだけでなくロシアの音楽界にとっても画期となる事件だったと思われる。同時にそれは、アントン-バラキレフ-5人組と続く革新運動が、挫折したところに生じた動きだったことを示している。
1876年 メック夫人、チャイコフスキーへの支援を開始。13年間にわたって年6,000ルーブルの年金を贈る。

1878年 チャイコフスキー、モスクワ音楽院講師を辞職する。その後約10年間、フィレンツェやパリ、ナポリなどヨーロッパを転々とする。

1878年 スイス逗留中のチャイコフスキー、ラロのスペイン交響曲に影響を受けバイオリン協奏曲を作曲。ペテルブルク音楽院教授レオポルト・アウアーに楽譜を送る。アウアーは演奏不可能として初演を拒絶する。

エキゾチズムの売れ線狙いで、しかもロシアをエキゾチズムの対象としてかなり野卑に描き出したのだから、その「似非民族主義」をロシア人が快く思わなかっただろうことは想像に難くない。

1880年 メック夫人、パリ音楽院の学生クロード・ドビュッシーを夏の間の家庭音楽家として雇う。

1981年 ライプツィヒ音楽院教授アドルフ・ブロツキー(ロシア人ヴァイオリニスト)が初演。ハンスリックは「悪臭を放つ音楽」と酷評するが、次第に名曲との評価が定着。

1881年 ニコライがパリで客死。ニース滞在中のチャイコフスキーはピアノ三重奏曲を贈り追悼の意を表す。

なぜピアノ・トリオなのか。それはメック夫人がピアノ・トリオを書くようせっついていたためでもある。メック夫人は「ドビュッシーも書いたのに…」とけしかけている。後年、メック夫人はチャイコフスキーからドビュッシーに乗り換えている。

1881年 レーピン、『作曲家モデスト・ムソルグスキーの肖像』を製作。

レーピンのムソルグスキー
1881年3月28日 ムソルグスキー、アルコール中毒にて死亡(42歳)

ムソルグスキーは81年初めに心臓発作で入院していた。レーピンは入院先でこの絵を描いた。描き上げて11日後、ムソルグスキーは息を引き取った。付き添いが密かに与えたブランデーが発作死の引き金となったと言われる
1881年 リムスキー・コルサコフはムソルグスキーの遺作を整理するため、無料音楽学校の音楽監督のポストを辞退し、バラキレフを呼び戻す。
1882年 近衛師団や近衛騎兵隊の軍楽隊を基礎として「宮廷管弦楽団」が編成される。レニングラード・フィルハーモニー交響楽団の前身。

1885年 材木商ベリャーエフが音楽出版社を作り、その最高顧問にリムスキー=コルサコフを招く。そのサロンに集まった音楽家が、「ベリャーエフ・グループ」を形成。リムスキー=コルサコフによれば、「バラキレフ・グループは革命的だったが、ベリャーエフ・グループは進歩的(漸進的)とされる。

1887年 チャイコフスキー、4ヶ月にわたりドイツ・フランスを演奏旅行。ドイツではブラームス、グリーク、R.シュトラウス、マーラー、プラハではドヴォルシャーク、パリではグノー、マスネと知己を得る。

1889年 パリ万国博覧会。ベリャーエフが企画しロシア音楽のコンサートが行われ、反響を呼ぶ。リムスキー・コルサコフ指揮でグリンカ、ボロディン、ムソルグスキーなどの楽曲が演奏された。

1891年 チャイコフスキー、パリに行き、その後アメリカに渡り、カーネギー・ホールの柿落としに自作品を指揮してデビュー。

1891年 モスクワ音楽院ピアノ科の卒業式で二人の金メダル(ラフマニノフとスクリャービン)が誕生する。作曲科の首席はラフマニノフが獲得。

1892年11月 チャイコフスキーがコレラで急死(53歳)。ロシア皇帝アレクサンドル3世は国葬を命じる。

1905年1月 「血の日曜日」事件が発生。リムスキー=コルサコフは政府批判を行ない、学生達を扇動したとしてペテルブルク音楽院の教授職を解かれる。これに対しグラズノフやリャードフらが抗議の辞職。 (1年後に復職)
1908年6月 リムスキー・コルサコフが心臓発作で死亡。二人の高弟グラズノフとストラヴィンスキーのほか、リャードフ、アレンスキー、プロコフィエフなどを育てる。