ウィキペディア「ロシアのクラシック音楽史」

国本静三「チャイコフスキーの生涯」

中林 曜子「チャイコフスキー≪ピアノ三重奏曲≫作品50について」

からの出典を重ねています。煩雑化を防ぐため、アントン・ルビンステイン、バラキレフ、チャイコフスキー、ムソルグスキーの4人に焦点を絞っています。
(2016年12月1日 1回目の増補しました)
(17年7月 2回目の増補です。今回は主に バクスト「ロシア・ソヴィエト音楽史」1971年 音楽之友社 からの出典です)

いろいろ地名が出てきますが、それはこちらの記事でご参照ください。

1836年 バラキレフ、ニジニ・ノブゴロドで中級官僚の息子として生まれる。

1840年 チャイコフスキー生誕。生地はウラル山脈西麓の鉱山町。父は製鉄場の監督官。

1842年 グリンカのオペラ「ルスランとリュドミラ」が初演。イタリア・オペラの席巻するロシア国内よりも、むしろ国外(フランス)で注目される。

グリンカはロシアの民族的旋律を積極的に使用。五人組によって「国民主義的音楽の嚆矢」ともてはやされたが、今日では多分に疑問とされている。

1844年 Rコルサコフ、ノブゴロドの田舎町に下級官僚の息子として生まれる。

1849年 ウィーンで活躍したアントン・ルビンステイン(以下アントン)、革命を避けロシアに戻る。宮廷ピアニストに招かれ自作オペラも上演するが、このオペラをめぐりスターソフとの論争になる。(スターソフは国民音楽を唱導する評論家で、のちに5人組のイデオローグとなる)

1851年 チャイコフスキー、ペテルブルグの法律学校に入学。ここは超エリート学校で、1835年に作られた。主に中流以下の貴族家庭の子弟が学んだ。チャイコフスキーは、繊細ではあったが、特別な音楽的才能は示していない。

1852年 バラキレフ、地元のカザン大学に入学。数学を学ぶ。

1854年 アントン、ベルリンなどの演奏旅行で成功を収める。リストとの交際が始まるが、ワーグナーなど後期ロマン派の評価について意見が分かれる。

1855年 アレクサンドル2世が帝位を継ぎ、自由主義的「大改革」を開始する。

1855年 アントン、ウィーンの音楽雑誌に寄稿。「①ロシア民謡はただ悲しいだけで単調である。②グリンカなどのロシア国民音楽の試みは失敗した。③ロシア民謡を取り込もうとすることが失敗の元となっている」と書き、国内に激しい反発を呼ぶ。

1855年 バラキレフと面会したグリンカは、バラキレフを後継者と評価したという。(当時すでにグリンカは引退しており、アントンを快く思わなかっただろう。バラキレフをそれとなく焚き付けた可能性もある)

1855年 チェルヌイシェフスキーが「芸術の現実に対する美的関係」を発表。「芸術の主題は知性の抽象ではなく客観的に観察し得る現実である」とし、形式的技巧を否定する。

1855年 バラキレフ、ピアノ演奏で名を挙げ、学業を放棄。ペテルブルクに出る。グリンカと会い音楽家となることを決意。音楽集団の組織化と理論化に着手。
1856年 バラキレフ、チェルヌイシェフスキーの「国民芸術論」の影響を受け、スターソフとともに「グリンカが残した国民主義的音楽の継承・発展」を提唱。「新ロシア楽派」を形成する。
1856年 Rコルサコフ、ペテルブルク海軍学校に入学。勉学の傍ら作曲を学ぶ。またチェルヌイシェフスキーやゲルツェンの著作にも親しむ。

1857年 バラキレフ、キュイ(55年)とムソルグスキー(56年)を巻き込みシューマン、ベルリオーズやグリンカの楽譜解釈に取り組む。またグリンカの主題を元にしたいくつかの曲を作る。

1858年 アントンが帰国。宮廷(とりわけ大公妃エレナ・パヴロヴナ)の支持を受けロシア音楽協会を設立。自ら芸術監督となる。

アントンは自宅で毎週演奏会を開いた。会の中心メンバーの中からロシア音楽協会設立の機運が盛り上がる。

1858年 チャイコフスキー、ロマーキンの学生合唱団に加入。ロマーキンはのちにバラキレフとともに無料音楽学校を創設。

1859年 アントン、音楽文化の建設には高等音楽教育が不可欠だと主張。大公妃の宮殿の一部を借り音楽教室を開校。プロ音楽家の養成に着手。


教師に外国人を起用。ピアノ科教授にはポーランド人のレシュテツキを招聘。ロシア音楽界のオペラ偏重やアマチュア主義、職業的訓練と社会的地位の欠如を批判。在来音楽家の排除に対しバラキレフらは激しく反発した。

1859年 ロシア音楽協会がコンサート向けの管弦楽団を組織。アントンの指揮で定期演奏会が始まる。キュイの「スケルツォ」も初演される。

1859年 チャイコフスキー、法律学校を卒業し、そのまま法務省にキャリア組として奉職。

入職後の成績は芳しくなかった。目標喪失症候群に陥ったようである。二度にわたり昇進を逃し、街頭を彷徨する日々を送っていたようだ。家族への手紙で「すべてが不愉快だ。仕事もうまくいかないし、金もない」と書いている。

1860年 バラキレフ、ボルガ川流域で民謡を採譜。62年にはコーカサスにも採譜旅行。その後民族色の強い曲を立て続けに発表。

1861年 アントン、ペテルブルクの雑誌に寄稿。ロシア音楽界が抱えるアマチュア主義を非難。プロの音楽家養成の必要性を訴える。

1861年 アレクサンドル2世による農奴解放などの改革が始まる。下級貴族や小荘園主には大きな打撃となる。

1861年 チャイコフスキー、ロシア音楽協会の教室に聴講生として参加。

1861年 海軍兵学校の学生だったリムスキー・コルサコフがバラキレフのサロンに加わる。最初は弟分の扱いで、本格的に作曲活動を行うのは、長い航海を終えた1865年のことになる。

1862年 音楽教室を母体としてサンクトペテルブルク音楽院が設立される。


一期生は179人。税関の官吏、予審判事補佐、技術士官、近衛連隊の中尉などさまざまな経歴を持っていた。グルジア人やイギリス人も含まれていた。

1862年 バラキレフらがペテルブルグ音楽院に対抗して無料音楽学校を設立。オーケストラを組織し、バラキレフが指揮者となって定期演奏会を開始する。

音楽院が古典派から前期ロマン派に比重をおいたのに対し、無料音楽学校は後期ロマン派やグリンカなど民族派の作品を演奏する。

1862年 チャイコフスキー、二度にわたり昇進に失敗したことから法務省でのキャリアアップを断念。音楽に専念することを決意。アントンの音楽院に入学する。

1862年 アントンの実弟ニコライ・ルビンシュタイン、ロシア音楽協会のモスクワ支部を組織。66年にモスクワ音楽院に昇格。

1863年 ボロディンがバラキレフのグループに参加。ボロディンは化学研究のためドイツに留学した際シューマンや後期ロマン派に心酔した。帰国後音楽の研鑽を積むためにバラキレフ・グループに接近した。

この人は稀代の秀才で、サンクトペテル大学の医学部を首席で卒業。この年30歳で早くも母校の教授に就任している。音楽活動はかなり晩年になるまで余技であった。


1864年 チャイコフスキー、「雷雨序曲」を制作。ベルリオーズ、リスト、ヴァーグナーの管弦楽法を取り入れた曲は、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーンをモデルとする保守的なアントン院長の不興を買う。


チャイコフスキーの伝記は酷評、演奏不能などのオンパレードである(とくにウィキペディアの記載) しかしなぜ酷評を受けたのかの説明は殆どない。これでは少女漫画の世界である。

1865年 チャイコフスキー、音楽院を卒業。卒業作品「歓喜に寄せて」は5人組の一人、キュイから酷評される。


ただキュイというのは狷介かつ剣呑な批評家で、いたるところで筆禍事件を起こしている。したがって、その批評に不快感を催したとしても、ショックを受けるほどのものではない。問題はその背景に、アントン対バラキレフの対立があったか否かである。

1865年 ムソルグスキー、農奴解放で実家が没落し、官僚の道もひらけず、母の死を機にアルコールにひたるようになる。

1866年 ニコライ、モスクワ音楽院を創立する。ニコライはアントンとは異なり人格円満、5人組との交流もあった。

1866年 チャイコフスキー、アントンの実弟ニコライ・ルビンシュタインの招聘を受け、モスクワに赴任。


モスクワ音楽教室の開設を準備中だったニコライは、教授を探してペテルブルグへやってきた。そして卒業作品を準備中のチャイコフスキーを見つけ口説いた。(中林)

1867年 モスクワでバラキレフがスラヴ音楽の演奏会を組織。「小さいけれども、すでに力強いロシアの音楽家の一団」と称えられる。評論家のスターソフは、この作曲家集団を「五人組」と名付ける。

1867年 アントン、ロシア音楽協会とサンクトペテルブルク音楽院のすべての仕事から撤退し、ロシアを去る。

アントンは、パトロンの大公妃が教師や生徒たちを夜会で演奏させるなど、自分の使用人のように扱うのに耐えられなかったとされる。

1867年 ロシア音楽協会は音楽監督としてバラキレフを指名。その後も協会内アントン派との角逐が続く。

1868年 モスクワのチャイコフスキー、ペテルブルクのバラキレフとの直接交流を始める。


バラキレフはその非妥協的な性格から大公妃と衝突した。またムソルグスキーとリムスキー=コルサコフはバラキレフの過度の干渉を拒否した。孤立したバラキレフはモスクワのニコライとチャイコフスキーに接近した。

1869年 バラキレフ、ロシア音楽協会の幹部により音楽監督を解任される。
1869年 ムソルグスキー、「ボリス・ゴドゥノフ」を完成。帝室劇場の理事会に上演を依頼。帝室劇場は思想性を理由に「ボリス・ゴドゥノフ」の上演を拒否。その後数回にわたり上演拒否を繰り返す。

1869年 チャイコフスキー、モスクワ音楽院で使う理論書を執筆、西欧の理論書の翻訳も手掛ける。民族主義的な作品も手がけるようになる。出版業者ユルゲンソンの示唆によると言われる。 

1870年 財政難から無料音楽学校での連続演奏会が中止される。バラキレフはうつ状態となり音楽活動を放棄。

1871年 アザンチェフスキーがペテルグルグ音楽院の院長に就任。音楽院のカリキュラムを近代化し、作曲科の教師にリムスキー=コルサコフを招請。


アザンチェフスキーはチャイコフスキーの『ロメオとジュリエット』やムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』を上演するなど、民族派音楽にも配慮した。その結果、無料音楽学校での連続演奏会の意義は薄れたという。

1871年 ペテルブルク音楽院の作曲と管弦楽法の教授にリムスキー・コルサコフが就任。リムスキー・コルサコフは路線転換にあたりモスクワのチャイコフスキーと相談したという。

私はコラールの旋律に和声をつける事もできず、対位法そのものは1つも書いた事がなく、フーガの構造についてはおぼろげな概念さえ持っていなかった。(後年の述懐)

1871年 リムスキー・コルサコフ、文無しのムソルグスキーを呼び、家具付きの部屋を借りて2人で共同生活を始める。 
1871年 チャイコフスキー、弦楽四重奏曲第1番の第二楽章(アンダンテ・カンタービレ)にロシア民謡をとりあげる。バラキレフの示唆を受けたものとされる。

バラキレフとの交流がルビンシュタイン兄弟との葛藤を生んでいた可能性がある。

1871年 それまでニコライの家に寄寓していたチャイコフスキー、家を出てアパートに居を移す。

1872年 チャイコフスキー、モスクワの新聞で音楽評を担当する。バラキレフとRコルサコフの曲に好意的な評価。

1872年 経済的に困窮したバラキレフは音楽界を退き、ワルシャワの鉄道会社の事務員の職に就く。その後バラキレフは自由主義から君主主義に移行、神秘主義者に変身する。

1873年 大公妃エレナ・パヴロヴナが死去。ロシア音楽協会とサンクトペテルブルク音楽院はロシア政府の経営となり、大公妃への依存から脱する

1874年 帝室劇場、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」の公演を承認。全曲が初演される。

1874年 リムスキー・コルサコフ、バラキレフの引退後空席となっていた無料音楽学校の管弦楽団の音楽監督を引き継ぐ。

1875年 チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番が完成。ニコライに献呈するが、ニコライは「この作品は陳腐で不細工であり、役に立たない代物であり、貧弱な作品で演奏不可能である」とスターリンばりの罵詈雑言。


これもどう考えても単純な話ではない。
ニコライは10年前、卒業したてのチャイコフスキーをモスクワに招き、自宅に住まわせ、ともにモスクワ音楽院の創設期を担った人物である。何かウラがあると見なくてはならない。
ニコライに曲を弾いて聞かせたのが74年のクリスマスイブ。この時にニコライから批判されている。しかし1年足らず後の11月には、この曲がニコライの指揮でモスクワ初演されている(ピアノはタネーエフ)。
78年には、ニコライが死んで絶望する夢を見たことと、彼に強い愛情を感じていることを書き記している。

1875年 ドイツのピアニストのハンス・フォン・ビューローにピアノ協奏曲の楽譜を送る。ビューローの演奏により西欧各地で大ヒット。チャイコフスキーはロシアを代表する作曲家として知られるようになる。

前後の脈絡からすると、これはチャイコフスキーにとってだけでなくロシアの音楽界にとっても画期となる事件だったと思われる。同時にそれは、アントン-バラキレフ-5人組と続く革新運動が、挫折したところに生じた動きだったことを示している。

1876年 メック夫人、チャイコフスキーへの支援を開始。13年間にわたって年6,000ルーブルの年金を贈る。

1878年 チャイコフスキー、モスクワ音楽院講師を辞職する。その後約10年間、フィレンツェやパリ、ナポリなどヨーロッパを転々とする。

ここは「チャイコフスキー物語」の一番の突っ込みどころで、押しかけ女房との結婚生活の破綻が背景となって、自殺を図るなど深刻なうつ状態に陥る。ゲイの話も絡んでくる。ただ制作活動の行き詰まりではないから回復は早い。ひょっとするとたんなるトンズラにすぎないのかもしれない。

1878年 スイス逗留中のチャイコフスキー、ラロのスペイン交響曲に影響を受けバイオリン協奏曲を作曲。ペテルブルク音楽院教授レオポルト・アウアーに楽譜を送る。アウアーは演奏不可能として初演を拒絶する。


エキゾチズムの売れ線狙いで、しかもロシアをエキゾチズムの対象としてかなり野卑に描き出したのだから、その「似非民族主義」をアウアーが快く思わなかっただろうことは想像に難くない。
それにしても「書簡」という形で、あることないことネチネチと書き綴るのは、あまり上品な趣味ではない。「松居一代」なみだ。

1878年 ペテルブルク音楽院の学生リャードフが「5人組グループ」に加わる。
1878年 キュイ、軍事技術学校の築城学教授に就任。

キュイはバクストにより酷評されている。

キュイはその音楽様式においてロマン的な微細画家である。それらはサロンや家庭での演奏には適するが、音楽会の舞台用ではない。それはシューマンの劇的、律動的激しさも、ショパンの叙情的な表現力も持っていない。

1879年 ムソルグスキー、大蔵省を退職。友人の世話で会計検査院に入職。

1880年 メック夫人、パリ音楽院の学生クロード・ドビュッシーを夏の間の家庭音楽家として雇う。
1880年 ムソルグスキー、会計検査院からも退職。レオーノワ(歌手)のピアノ伴奏者として南部ロシアを楽旅。

1981年 ライプツィヒ音楽院教授アドルフ・ブロツキー(ロシア人ヴァイオリニスト)が初演。ハンスリックは「悪臭を放つ音楽」と酷評するが、次第に名曲との評価が定着。

1881年 ニコライがパリで客死。ニース滞在中のチャイコフスキーはピアノ三重奏曲を贈り追悼の意を表す。


なぜピアノ・トリオなのか。それはメック夫人がピアノ・トリオを書くようせっついていたためでもある。メック夫人は「ドビュッシーも書いたのに…」とけしかけている。後年、メック夫人はチャイコフスキーからドビュッシーに乗り換えている。

1881年 レーピン、『作曲家モデスト・ムソルグスキーの肖像』を製作。

レーピンのムソルグスキー
1881年3月28日 ムソルグスキー、アルコール中毒にて死亡(42歳)


ムソルグスキーは81年初めに心臓発作で入院していた。レーピンは入院先でこの絵を描いた。描き上げて11日後、ムソルグスキーは息を引き取った。付き添いが密かに与えたブランデーが発作死の引き金となったと言われる

1881年 リムスキー・コルサコフ、無料音楽学校の音楽監督のポストを辞退。バラキレフを呼び戻す。空いた時間はムソルグスキーの遺作を整理するために費やされる。

バラキレフは長年うつ状態にあったが、徐々に回復した。この間、Rコルサコフとリャードフの援助を受けていたとされる。

1882年 近衛師団や近衛騎兵隊の軍楽隊を基礎として「宮廷管弦楽団」が編成される。レニングラード・フィルハーモニー交響楽団の前身。
1883年 バラキレフ、宮廷礼拝堂の楽長に任命される。その後、無料音楽学校から撤退し、10年以上にわたり楽界での沈黙を守る。

1884年 リムスキー・コルサコフの家で音楽サロンが持たれるようになる。このサロンに材木商ベリャーエフが参加。サロンに集まった音楽家が、「ベリャーエフ・グループ」を形成。リムスキー=コルサコフによれば、「バラキレフ・グループは革命的だったが、ベリャーエフ・グループは進歩的(漸進的)とされる。

1885年 ベリャーエフ、Rコルサコフを指揮者としてロシア管弦楽演奏会を開始。またグリンカ賞を設ける。

1886年 ベリャーエフが音楽出版社を作り、その最高顧問にリムスキー=コルサコフ、グラズノフ、リャードフを招く。

1887年 チャイコフスキー、4ヶ月にわたりドイツ・フランスを演奏旅行。ドイツではブラームス、グリーク、R.シュトラウス、マーラー、プラハではドヴォルシャーク、パリではグノー、マスネと知己を得る。

1889年 パリ万国博覧会。ベリャーエフが企画しロシア音楽のコンサートが行われ、反響を呼ぶ。リムスキー・コルサコフ指揮でグリンカ、ボロディン、ムソルグスキーなどの楽曲が演奏された。

1891年 チャイコフスキー、パリに行き、その後アメリカに渡り、カーネギー・ホールの柿落としに自作品を指揮してデビュー。

1891年 モスクワ音楽院ピアノ科の卒業式で二人の金メダル(ラフマニノフとスクリャービン)が誕生する。作曲科の首席はラフマニノフが獲得。

1892年11月 チャイコフスキーがコレラで急死(53歳)。ロシア皇帝アレクサンドル3世は国葬を命じる。

1897年 バラキレフ、ロシア地理協会で収集された民謡を出版するための責任者となる。

1905年1月 「血の日曜日」事件が発生。リムスキー=コルサコフは政府批判を行ない、「学生達を扇動した」としてペテルブルク音楽院の教授職を解かれる。これに対しグラズノフやリャードフらが抗議の辞職。 (1年後に復職) 

1906年 音楽院の管理者側が折れ、グラズノフが院長に就任。Rコルサコフも教授職に復帰する。

1908年6月 リムスキー・コルサコフが心臓発作で死亡。二人の高弟グラズノフとストラヴィンスキーのほか、リャードフ、アレンスキー、プロコフィエフなどを育てる。

1910年 バラキレフが死亡。最後まで面倒を見たリャプノフが遺作の整理にあたる。