盲蛇に怖じずというか、酒の勢いでつい知ったかぶりをしてしまったようだ。

少し勉強をしていくうちに、チャイコフスキーと5人組の関係はさほど単純なものではないことに気づいた。

19世紀後半ロシアの枠組み

まず大枠を確認しておきたい。チャイコフスキーが生まれたのが切りの良い1840年。音楽の道に踏み込むのは1860年ころだ。

ロシアはロマノフ王朝の最盛期。南方や東方への膨張の真っ最中だ。しかし西欧の産業革命には乗り遅れ、国内的にはまだ中世の眠りの中にあった。

しかし西欧文化は新たな工業製品とともに怒涛のごとく押し寄せてくる。これらに対応し、西欧に追いつき追い越すためには、まず大量の知識人の養成が必要だ。それには従来の支配層たる荘園主の子息だけではとても間に合わない。

そこで中下層から優秀な人材を発掘し西欧式のエリート教育を施す必要がある。かくして知識の大衆化が一斉に始まる。同時に彼らを国家の枠にはめ込むためには、国民国家として民族精神を注入していかなければならない。「和魂洋才」である。

これらの時代状況は明治維新下の日本とまったく同様だ。違うところは、日本は曲がりなりにも権力交代を伴う政治変革があったが、ロシアはまったく旧態依然ということだ。

この辺の「鬱積感」というのが根っこにあるから、「和魂洋才」の「和」というのが問われざるを得なくなる。少なくともロシア近代化を目指す者にとって、「和魂」とは単純なツァーリ体制賛美ではなかったろう。

それは動揺を繰り返しつつ、究極的に1917年の革命へと向かっていく流れの源流となる。

変革の動きと西洋音楽の位置づけ

19世紀半ばに至って、西洋音楽は一面では大衆娯楽化し、他方で重厚長大化している。辺縁地域から文化としてそれを仰ぎ見た時、まずは100人をこす団員によって奏でられる、1時間に達するような長時間の交響曲である。

それは観客千人を越えるような大劇場で演じられ、莫大な費用が投じられ、それだけの見返りを産み出す。グランドオペラであれば、さらにその数倍の費用を要するであろう。

それはまさに資本主義の象徴としての意味を持っている。

しかし翻って見るに、ロシアにはそれだけの観客がいない。さてどうするかということである。

次は、もう少しチャイコフスキーと5人組をめぐる小状況(とくに人脈)について調べてみたい。