私は中学時代に音楽の授業でこう習った。

チャイコフスキーは親西欧的な性向で名声を博した。これに対しロシア5人組はロシア民族主義を押し出し、これがロシア音楽の二つの流れを形作った。

今では、これは大嘘だと言える。少なくとも事実は相当ねじまがって伝えられている。

結局、話はバラキレフの評価に行き着く。

バラキレフというのは実は大した人物ではない。グリンカを奉じてロシア民族主義を鼓吹するイデオローグにすぎない。

しかも民族主義と言っても国民を巻き込んだ民族主義ではなく、王宮や富裕層のサロンで展開された西洋風音楽の展開形態をめぐる内輪話にすぎない。

だいたいが、グリンカを奉じながらロシア民族主義を語るのが筋違いであり、グリンカは国内ではほとんど評価されることなく、むしろフランスやドイツで一旗揚げた人物である。

だからバラキレフの法螺話に乗ったのはサロンに出入りする高級軍人だけだった。だから彼らの民族主義はエリートのアマチュアリズムと何の矛盾もなく癒合したのである。

田舎出の音楽好きの秀才チャイコフスキーにとっては、それに迎合するか、それとも別な道を探すしか道はなかった。

だからチャイコフスキーはペテルブルク音楽院を出ながらモスクワ音楽院に移ったのである。そしてモスクワはペテルブルクよりはるかに遠隔の地にありながら、親西欧的な音楽を取り入れ、成功したのである

今でこそ政府のあるモスクワに対してペテルブルクは「古都」になっているが、チャイコフスキーの時代にはペテルブルクこそが首都であり、モスクワは「古都」に過ぎなかった。

おそらくバラキレフとチャイコフスキーの対立点は二つあったと思う。一つ(表面的)は芸術としての練度を重視するか、「民族性」を重視するかのちがいであり、もう一つ(実質的)はサロンの外の民衆に音楽を通じてどう接点を形成し、どう語りかけていくかの違いであろう。

そこのところでは5人組とチャイコフスキーとの間にさほどの違いがあるわけではない。バラキレフさえいなければ十分に両立可能なものであった。チャイコフスキーは仕切りなおしたグリンカだった。

しかし一度こじれた人間関係はいろんな余波を呼んでいくことになる。


すみません。上記の文章は一知半解、誤解に基づく独断です。

「日記」ですので、あえて抹消はしません。

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