ブログで連載した後、ホームページのほうでだいぶ増補したが、一応形をなしてきたので紹介しておく。

目下の結論

1.毛沢東はライバルではなかった

はっきりしているのは、瑞金政府の成立までは毛沢東は一地方幹部に過ぎなかったということである。

中国革命成立後、毛沢東の活動についてはずいぶん潤色されている。それは根こそぎ剥ぎ取るのが困難なほど歴史に刻み込まれている。

毛沢東の活動を除けば、中国共産党の歴史は向忠発総書記の逮捕・処刑をもっていったん終結している。

その後は西安事件まで、苦難の歴史が続くが、階級闘争の方はその間完全に中断していると見て良いだろう。

2.コミンテルンに振り回された革命

ただその「苦難の期間」は、中国共産党がコミンテルンのいうがままの路線を卒業して独自の解放路線を掴み取るための貴重な期間でもあった。そのことは抑えておかなくてはならない。

中国革命にとって、コミンテルンの意義は功罪相半ばする。というより最初の数年間を除けばコミンテルンこそ害悪の源であったといえる。

この害悪を骨の髄まで感じていたはずの毛沢東だが、革命が成功するやいなや、自らがコミンテルンになったかのように他国(日本)の運動に干渉した。

トロツキーはコミンテルンに対抗して第4インターを作るという形で、同じ間違いを繰り返した。

それもこれも、煎じ詰めればコミンテルンの害悪である。

3.中国革命幹部の3つの世代

およそ10年の中国革命であるが、一応3つの世代に分かれる。

第一世代はマルクス主義を受け入れ、その延長線上にコミンテルンを受け入れたインテリ世代である。日本に留学し日本を通じてマルクス主義に接した人々である。

陳独秀、李大釗が双璧をなす。その他にも多くの人々がいたが、ほとんどはその後転向している。

第二世代は、第一世代を通じてマルクス主義に接し、国共合作期の活動を実質的にになった世代である。北京グループ、上海グループ、地方グループがある。中でも毛沢東の湖南グループが最強であった。これらの中からフランスに留学し、現地で活動に加わった人たちが育っている。

第三世代は、コミンテルンが確立した後モスクワに派遣されたレーニン・スターリン主義者のグループである。日本で言えば「クートベ帰り」に相当する。

4.フランス人脈の重要性

コミンテルンに振り回された中国革命ではあるが、フランス留学の経験を持つグループは、モスクワに対して一定のスタンスを持っていた。

フランス留学といってもお金があって留学したわけではない。勤・工・検といって「勉強もできる」という名目の低賃金労働に駆り出された連中である。

彼らは毛沢東のような土着の革命グループに対しても一定の理解を持ち、コミンテルンの指示を忠実に守りつつもそれに飲み込まれないだけの自主性を持っていた。

彼らが毛沢東と結びつくことにより、中国革命はからくも瓦解を逃れることが出来たと考えられる。