佐藤さんの文章を読んで、次のように書いた。

ビレンケン(A.Vilenkin)は、宇宙は“無”の状態から生まれるのだと主張し、モデルを提出した。

ビレンケンのいう“無”とは単に物質が存在しないという意味ではなく、その入れ物である時間も空間も存在しない状態である。

このへんの言い方はどうも変で、納得がいかない。中身が無いというのではなく、それを入れる容器としての時空が“無”に近いほど小さいということではないのでしょうか。


実は、これを書いていて、「これはアキレスと亀ではないか」と思いついた。

高校のとき、数学の先生がこのパラドックスを否定するのに、時間・距離グラフを書いて「ほら、ちゃんと交わるではないか」と言って終わりにした。私にとっては、それからが悩みの始まりとなった。

この先生は、別な論理を持ちだして解を導き出したに過ぎない。「アキレスと亀」の論理は何も否定していないのだ。


両者の論理の違いはゼロ=交点の向こう側の世界に対する見方の違いにつながる。

「アキレスと亀」論者にとっては交点の向こうがもしあるとするれば、それは「虚」の世界になる。虚時間であり、虚空間である。

数学の先生にとっては、ただの負数の世界である。ゼロの次の駅はマイナス1であり、2,3と続いている普通の風景である。交点をゼロと決めたのは、たまたまそこをゼロと決めたからに過ぎない。

4次元の世界では絶対的なポイントであっても、5次元の世界から見ればたくさんのポイントの中の一つにすぎないのかもしれない。


前にも書いたが、「アキレスと亀」のパラドックスは分析的論理の範疇を超えていると思う。叙述的論理が必要な場面だ。みずからを主体化し、方向付けすることによってしか乗り越えられないのではないか。そしてもう少し時間的な幅をもって考えなければならないのではないか。

ということは、あるピンポイントの瞬間を交点と考えるのではなく、交点を超える作業の連続過程として、どういう方向に進んでいるのかを問わなければならないということになる。それはおそらくトンネル効果のトンネルの中に隠されているのだろうと思う。


これと似たような話は、実は20世紀のはじめにもあった。物理学の世界で「物質が消滅した」という説が飛び出して、それを元に不可知論が登場し、レーニンが悪戦苦闘した(成功したとはいえないが)経過がある。

これは、事物が物質であり運動であり、両者の関係としての「過程」だというヘーゲルの弁証法により克服された、と私は思っている。

そこにおける主体と客体の相互転換は、一見トリッキーではあるが、Ursinn を想定することで、上行可能だ。

これを、逆行的に示したのが「坂田モデル」の真髄だと思う。