1927年

27年1月

1.03 蒋介石、武昌に向かう譚延ガイ主席代理を引き止め、南昌で政治会議臨時会議を開催。中央党部と国民政府は暫時南昌に留めおくと決議する。(ガイは門構えに豈)

1月 漢口と九江のイギリス租界で、英兵と民衆との間で流血事件。民衆は実力で両租界を回収する。

1月 毛沢東、「湖南農民運動視察報告」を発表。初めて農村からの武装革命路線を主張する。

1月 魯迅、北京を去り広東の中山大学教授に就任するが、4月クーデターに抗議して辞任。その後は上海に定住。プロレタリア派と「革命文学論戦」を展開する。

27年2月

2.11 共産党、上海地区代表大会を開催。二回目の武装蜂起について議論。「ストだけではなく、暴動を準備」し、上海を奪取することを決議。

2.18 国民革命軍、杭州を占領。

2.21 上海総工会代表大会の呼びかけによりストライキを開始。参加者は35万人に上る。ブルジョアジーは罷市で呼応せず、国民党の幹部も協力を拒む。

2.22 共産党、第2次上海蜂起を指示。臨時革命委員会を立ち上げる。蜂起は失敗し、戦死者四十数名、逮捕者三百数十名を出す。

2.24 上海総工会は労働者に復職を指示。「復業して大衆的な暴動を準備せよ」と呼びかける。

2月 この後共産党は第三次蜂起を目指し、労働者糾察隊の編成強化と民衆政権の母体としての市民代表会議の結成を目指す。

2月 国民政府とイギリスが外交交渉。イギリスは漢口と九江の租界を中国に返還することで合意。

27年3月

3.07 譚延ガイ、南昌をでて武漢に到着。国民党二期三中全会を開催。蒋介石は中央執行委員会常務委員会主席と政治会議主席からの辞任を通告する。

3月 蒋介石、国民党右派と手を結び、各地で農民運動・労働運動を弾圧。

蒋介石は、軍事力で安徽省や浙江省をおさえ、南京や上海などの大都市を確保し、豊富な資金源を後盾に武漢に対抗しようとはかる。

3.12 上海で第一回臨時市民代表会議が開催される。労働者100,商人50,その他50の配分。

3.17 国民党二期三中全会、中山艦事件後の暫定的機構を廃止し、中央執行委員会を設置。汪精衛、蒋介石をふくむ九名の常務委員が選出される。国民革命軍総司令に与えられていた独裁的権限は否定され、軍事委員会が主権を掌握する。国共合作は、国共両党間の対等の同盟へ変更される。

3月 国民革命軍、浙江軍閥の孫伝芳が支配する南京を占領。攻防戦の中で、外国領事館・住宅・教会が襲われ英・仏・米人6名が殺害される。(南京事件)

3月 英・米両国軍による南京報復作戦。軍艦が南京を砲撃し、軍民2000名が死亡。(南京砲撃事件)

英・米・日・仏・伊は国民革命軍に武力干渉を突きつけた。若槻内閣の幣原外相は、1.武力干渉は事態を紛糾させるだけ、2.蒋介石のような人物を押し立てて時局を収拾させるべき、と主張。 幣原は蒋介石の派遣した戴季陶と接触し、すでにその意志を確認していた。

3.20 北伐東路軍が松江を占領、先頭部隊の第一師団が上海近郊の龍華に到着する。

3.21 上海市民代表会議常務委員会は蜂起とゼネストをよびかける緊急命令を発出、同時に上海総工会もゼネスト命令を出す。

0PM 正午を期して全市八〇万にものぼる労働者がストライキにたちあがる。

1PM 労働者の蜂起がはじまる。労働者部隊は警察署や電話局、兵器工場や鉄道駅の接収に成功。奉魯連軍の司令部がある閘北では、激戦となる。

3.22 9AM 第2回市民代表会議が開会され、上海市臨時政府の委員19名が選出される。

6PM 奉魯連軍の最後の拠点である上海北駅が陥落する。

3.23 第1軍の本隊が上海に入る。

3.26 第1軍に続き、蒋介石が上海に到着する。共産党が頼みとする薛岳の第一師団を郊外に分散移転させ、上海を事実上の軍政下におく。

3.29 蒋介石が市政府の職務開始を阻む。国民党やブルジョアジーの政府委員も着任を拒否。

3.31 コミンテルンが緊急指令を打電。「公然たる闘争は(諸勢力の相互関係がすでにきわめて不利になっていることにかんがみ)当面採用してはならない。武器は引き渡してはならない」とする。

江田によれば、スターリンやブハーリンは北伐の続行を優先し、そのため蒋介石を、国共合作と統一戦線の枠内にとどめようとした。これをうけたヴォイチンスキーはクーデターの直前まで蒋介石との妥協を主張していたとされる。

3月 北伐軍は長江一帯を制圧、広東、広西に加え、湖南、湖北、江西、福建、浙江、安徽、江蘇の9省を支配下に収める。

3月 北伐作戦の中で共産党員は5万8千人に達する。労働組合員は28万人、農民組合には1千万人が組織される。

27年4月

4.05 汪精衛が上海に帰着。陳独秀との共同声明で、国共合作継続を声明。さらに蒋介石攻撃を非とする電報を武漢に打電する。

4.06 共産党上海地区委員会が活動分子会議。「もし蒋介石が糾察隊の武装を解除しようとすれば、すべての労働者がストにたちあがり、蒋介石軍の武装を解除する」とし、武器隠匿を拒否。

4月 英日両軍が上海を砲撃。

4.06 7カ国外交団がソ連大使館への監督強化を要請。張作霖の軍隊が北京のソビエト大使館を強制捜査し。李大釗ら共産党員を逮捕。重要書類を押収する。

4.12 蒋介石が「上海クーデタ」を起こす。上海の軍と暴力組織(青幇・紅幇)が総工会委員長の汪寿華を暗殺。共産党組織、労働者組織を襲撃。デモに立ち上がった労働者を軍が銃撃。

4月 国民党武漢政府は、蒋介石の党籍を剥奪、逮捕令を出した。

4.18 蒋介石はこれに対抗して、南京に独自政府を樹立、共産分子の粛清を宣言。国民党は武漢と南京に分裂。

4.26 北京のソ連大使館から連れ去られた中国人20人中19人が処刑される。

4.27 漢口で第5回共産党大会が開催される。武漢政府との共闘を確認。

4.29 党大会で、瞿秋白(政治局員)が指導部の路線を公然と糾弾するパンフレットを配布。

パンフレットは『中国革命における争論問題―第三インターか第〇インターか 中国革命のメンシェヴィズム』と題され、上海クーデターを許した陳独秀指導部の責任を問うもの。

27年5月

5月 呉佩孚、政権を放棄し、四川省へ逃走する。

5.30 コミンテルン第八回執行委員会総会、共産党の武漢政府への集中的参加と左翼化を打ち出す。

5月 唐生智麾下の第8軍、長沙で省総工会、農民協会、共産党諸機関を襲撃。1週間にわたって処刑を繰り返す。(馬日事変)

5月 上海政変に乗じ、日本が第一次山東出兵を行う。

27年6月

6.17 武漢政府はコミンテルン指令を警戒し、共産党の排除に動く。ボロジンの顧問職を解き、二名の共産党員部長にたいしても辞職を迫る。

6.29 漢口駐屯の三五軍が反共宣言。労働組合を占拠し、総工会労働者糾察隊を解散に追い込む。

27年7月

7.03 共産党が中央拡大会議を開催。「国共両党関係決議」を採択。「中国国民党は国民革命を指導する立場にある。労働者・農民などの民衆団体は、すべて国民党党部の指導と監督をうける」など全面屈服の方針を提起。

7.12 陳独秀は国共合作に失敗した責任を問われ、総書記の職務を停止させられる。張国燾が代理として共産党中央の責任者となる。瞿秋白も責任を問われ臨時中央常務委員会から排除される。

7月 共産党、武漢政府と決別し退去。国共合作は最終的に解体。国民党は容共政策を破棄、第一次国共合作は崩壊した。

27年8月

8月1日 共産党の武装勢力(賀竜、葉挺、朱徳の部隊)、南昌で蜂起。中国人民解放軍の建軍記念日とされる。

8.07 漢口の日本租界で共産党中央緊急会議を開催(八七会議)。陳独秀を右翼日和見主義と批判し解任。瞿秋白が臨時中央政治局常務委員兼中央指導者に任命される。

会議は新たに配置されたコミンテルン代表ルミナス(Besso Lominadze)とHeinz Neumannの指導。湖北・湖南・江西・広東で収穫時期に合わせて武装蜂起することを決定。

27年9月

9月 共産党の武装蜂起が劣勢になる。主力は根拠地を国民党軍に制圧され広東に南下する。毛沢東は湖南省長沙で武装蜂起するが失敗し、井崗山に立てこもる。

9月 共産党内では李立三と王明の都市蜂起論が主流になる。

9.09 南京と武漢の国民党は、蒋介石のもとに統一。

27年10月

10月 井崗山の毛沢東は、「三湾改編」(軍と党の一体化、財政公開、軍隊内民主主義)を実施。

11月 瞿秋白、「間断なき革命」論を提起。さらに武装暴動路線を推進する。

11月 毛沢東、長沙蜂起の責任を問われ、政治局候補委員から解任される。

12月 共産党の都市武装蜂起がことごとく失敗に終わる。

12月 葉剣英の指揮する部隊は広州で蜂起、広州コミューンを樹立。その後国民党軍の包囲を受け数千の犠牲を出して全滅。残る拠点は毛沢東の井岡山だけとなった。コミンテルンは瞿秋白を公然と批判する。