1926年

1.04 広州で中国国民党第二次全国代表大会が開かれる。蒋介石は北伐の実行を力説。ソ連軍事顧問団のキサンガは北伐が時期尚早であると反対。

代表278名のうち左派と共産党員が168名をしめていた。しかしヴォイチンスキーの判断で右派にたいする譲歩・妥協が行われ、中央執行委員会には7名の共産党員にとどまる。
しかし9名の常執中では左派が3名、共産党が3名で優位を握る。また党内各部人事では、譚平山が組織部長、林祖涵が農民部長、毛沢東が宣伝部長代行となる。
軍における影響力も強く、第1~6軍の殆どで党代表・政治部主任を共産党員が占めた。

1月 親共派の汪精衛(汪兆銘)が全権を握る。国民政府主席、国民党政治委員会主席、国民政府軍事委員会主席、各軍総党代表を兼任し、政治と軍事の最高責任者となる。

1月 北京政府で政変。馮玉祥が失脚。

2月 北京で共産党が中央特別会議を開催。陳独秀は病気のため欠席し、李大釗、瞿秋白らが主導。北伐作戦への支持を明らかにする。

現在のもっとも主要な任務は、広州国民革命勢力の進攻を準備すること、農民工作を強化することである。
とりわけ北伐の過程ににおいて労農の革命的同盟の基礎をきづき、国民革命の全国規模での勝利を達成することである。

26年3月

3.13 コミンテルン第六回拡大執行委員会、「中国問題についての決議」を採択。「四民ブロック論」を提起する。

国民党を「労働者・農民・インテリゲンチャ・都市民主層の革命的ブロック」とし、国民革命軍を馮玉祥の国民軍とともに「革命的民主主義的な民族的軍隊」の基盤と位置づける。
それを前提に、共産党に民族ブルジョアジーとの統一戦線維持を命じる。

3.18 中山艦事件が発生国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が、黄埔軍官学校の沖合に航される。蒋介石は「自らを拉致しようとする国民党左派・共産党のしわざ」と判断したという。

3.20 蒋介石、広州市内に戒厳令を敷き、中山艦艦長の李之竜(共産党員)をはじめ共産党・ソ連軍事顧問団関係者を逮捕。ソ連人顧問団の居住区と省港罷工委員会を閉鎖、労働者糾察隊の武器を没収する。

3.21 蒋介石、李之竜以外の共産党員を釈放し、ソ連軍事顧問団の住居とストライキ委員会の建物に対する包囲を解く。

3.22 ソ連領事館と蒋介石が接触。蒋介石は「今回の事件はソ連に反対するものではなく、個人的な問題から起こった」と弁明する。

江田によれば以下のとおり
 おりしも広州で事件に遭遇したソ連共産党派遣のブブノフ使節団は、蒋介石との折衝のすえ、北伐に反対していた軍事顧問団長キサンカの召喚などの蒋の要求を受け入れ、統一戦線の維持をはかった。
使節団から説明をうけた上海の党中央は、「中国革命勢力の統一」の名のもとに譲歩を表明せざるをえなかった。

3.23 汪精衛はすべての党職を離れる。5月には妻を伴いフランスへ逃れる。

3月 蒋介石が国民党内の実権を握る。「整理党務案」を発し国民党の要職から共産党員を排除、共産党員の服従を強いる。

3月 スターリンの意向を受けたソ連軍事顧問団は、国共合作を維持する立場から蒋介石の行動を是認。ソ連軍事顧問団の首席顧問キサンカ(Kisanka)とロガチョフ(Rogachev)を召還する。

3月 唐生智、長沙で軍閥の長としての覇権を確立。国民政府、呉佩孚の双方に覇権の承認を求める。

唐生智は当時37歳。保定陸軍軍官学校を卒業し、湖南省南部を地盤に覇権争いに加わった。長沙の省長の追放に成功し、軍閥として独り立ちした。

3月 毛沢東が「中国社会各階級の分析」を発表。陳独秀を批判する。

4.16 蒋介石の主導で国民党二期二中全会。「党務整理案」を決議。蒋介石は国民政府軍事委員会主席に就任。

5.08 呉佩孚、北京を制圧。その後奉天軍と和平を結び、国民党の北伐軍の進攻阻止に力を集中する。

5月 広州に帰着したボロジン、共産党の頭越しに蒋介石と協議をおこない、「党務整理案」を共産党に受け入れさせる。

5月 唐生智、呉佩孚軍に攻めこまれ湖南省南部に退く。反撃のため国民党軍への加入を決断。第八軍として国民革命軍に編入される。

26年6月

6.04 共産党、「中国共産党の中国国民党に致す書」を発表。「党内合作か党外合作かの合作方式は固定される必要はない」とのべて、国民党からの脱退を公然と主張する。

6.04 蒋介石の主導のもとに、国民党の中央執行委員会臨時全体会議が開かれる。「迅行出師北伐案」および「任蒋介石国民革命軍総司令案」を可決。「帝国主義と売国軍閥を打倒して人民の統一政府を建設する」ため、北伐作戦を決定。約10万の国民革命軍が組織される。

26年7月

7.01 蒋介石が全軍に動員令を発する。

7.07 国民政府が「国民革命軍総司令部組織大綱」を公布。蒋介石の独裁権力が明文化される。

7.12 共産党、ヴォイチンスキー参加のもと、上海で第四期二中全会をひらく。「軍事運動決議案」を採択。「武装闘争の工作に参加し、進歩的な軍事勢力を援助し、反動的な軍閥勢力を壊滅させ、しだいに労農大衆の武装勢力を発展させるべき」とする。

7.12 第四期二中全会では、蒋介石突出後の国民党の再評価も討議された。「国民党左派(汪精衛ら)と連合し反動派(孫科ら)を攻撃し、中間派の発展を防ぎ、彼らが右を離れて左に就くように迫る」との方針を採択。中間派には「新右派」(戴季陶や蒋介石)がふくまれている。

蒋介石を「反動」ではなく「中間派」としたのはヴォイチンスキーの指示とされる。彼は「社会の勢力の中で、現在はまだブルジョアジーを敵視できない。ときにはまだ中間派を援助しなければならない」と主張した。
決議には「ブルジョアジーが将来の敵であり、あるいは一年か三年後の敵であることはわかっているが、現在は友軍、しかも有力な友軍と見なさないわけにはいかない」との苦渋の表現。

7月 広東の国共合同「国民革命軍」が北伐戦争を開始する。 

北伐の基本戦略: 湖南・湖北の呉佩孚軍を基本打撃対象とし、江蘇の孫伝芳を第二次対象とする。西路軍(唐生智)が先鋒となり長沙から武昌を狙う。中央軍(蒋介石)は西路軍の右翼を守るとともに本拠地の広州を防衛する。東路軍(何応欽)は中央軍の右翼を防衛するとともに、福建方面で積極防衛を図る。
作戦の策定には新任のソ連軍事顧問ブリュッヘルがあたる。

7月 国民革命軍、長沙を占領。

26年8月

8.25 湖北省咸寧近郊の汀泗橋で3日間にわたる激戦。国民革命軍の第4軍が呉佩孚軍と対決。第七、第八軍が戰場左翼で吳軍を壓制する。

8月 陳独秀、党機関紙『嚮導』に、「北伐論」を発表。民衆を無視しかねないものとして批判的に取り扱う。

陳独秀は「国民革命軍の北伐を論ず」を発表。
1.北伐は一種の軍事行動であって、中国民族革命の全的な意義を代表するものではない。
2.投機的な軍人・政客の権勢欲のためのものとなりかねない
3.北伐の意義を「防禦戦争」に限定し、戦費を民衆から調達してはならない。

8月 上海のヴォイチンスキーと瞿秋白が広州に入る。現地のボロディンらと会談し蒋介石との妥協を説く。現地は左派の指導権を回復することを主張。

8.07 瞿秋白、「北伐の革命戦争としての意義」を書く。革命戦争たる北伐の過程でプロレタリアートがヘゲモニーをかちとる必要性を強調。「嚮導」はこの論文を掲載せず。

26年9月

9月 広州の共産党と国民党左派、汪精衛復帰のキャンペーン(迎汪運動)を開始する。

9.09 唐生智の率いる西路軍(国民革命第八軍)が漢口と漢陽を占領。長江を挟んで武昌の呉佩孚軍と対決。

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古い世界地図」より転載

9.09 蒋介石は張静江に打電。国民政府の常務委員が広州から武漢に移動し、政治権力を掌握するよう要請。

蒋介石は西路軍の総指揮をとる唐生智を警戒し、広州政府が武漢に移転することにより、唐生智が自らのライバルとなることを阻止しようと図った。

9.12 蒋介石、上海の陳独秀に対し汪精衛の帰国に賛成しないように要請する。これを受けた上海の共産党中央は、コミンテルン極東局と合同の会議を開催。「迎汪は倒蒋を目的とせず汪蒋合作を目的とする」と決定。

9.16 蒋介石と唐生智が直接協議。臨時政務会議を設置して湖北省の支配を委ねることで合意。

10.03 蒋介石、共産党の中立方針を受けた上で、汪精衛の復帰をもとめる態度を明らかにする。

10.15 広州で、中国国民党の中央委員・各省・各特別区市・海外総支部の聯席会議が開かれる。汪精衛に対する復帰要請が、党員全体の意志として決議される。

10月 唐生智の率いる西路軍が武昌を占領。湖南・湖北から、呉佩孚軍(直隷派)を駆逐する。

西路軍軍事顧問テルニーによれば、
1.唐生智は蒋介石にとってかわろうとしてしていた。 2.そのためにソ連や共産党に接近しようとしていた。 3.上海の孫伝芳と交渉し蒋介石の敗北を画策した。
以上の事実を踏まえ 4.テルニーは蒋介石を支持し唐生智の権力拡大に反対である。

10.22 蒋介石、国民政府を広州に残し国民党中央を武漢へ移転するよう主張。

10.23 共産党による上海蜂起。直前に中止となり、失敗に終わる。

10.28 連席会議が終了。国民党各派及び共産党は、奉天派への配慮から慎重な態度をとり、武漢への移転は見送られる。

唐生智に対する共産党は上海と広州とで分かれる。広東では唐生智を投機的で危険な人物と評価。上海の共産党中央は 1.唐生智は民衆運動を圧迫した事実が全く無い。 2.汪精衛復帰に賛成している ことを重視し、
 唐生智を左傾させ、蒋介石を牽制し、汪精衛復帰への道をひらく方針を出す。

26年11月

11.07 蒋介石の度重なる要請を受けた国民政府および国民党、武漢移転の方向を打ち出す。

11.08 蒋介石の率いる中央軍部隊が江西省の南昌(省都)、九江を占領。

11.16 国民政府の四人の部長(大臣に相当)、および宋慶齢ら国民党の要人が武昌に向かう。ボロディンもこれに随行する。国民党要人不在となった広州では共産党の李済深が省権力の実態を掌握。

11.22 モスクワでコミンテルン第七回中央執行委員会全体会議が開かれる。蒋介石は代表(邵力子)を送り、スターリンの支持取り付けを図る。

11.28 共産党代表の譚平山がコミンテルンで報告。「一定の条件下で民族ブルジョアジーとも連合する必要がある。国民党中間派が左へ歩みより、左派との提携の可能性が生まれている」と評価する。

11.30 スターリンが中国委員会で演説。きたるべき権力は、反帝・非資本主義の過渡的な権力だと規定。またブハーリンは、後進国革命は労働者階級の決定的な影響のもとにおかれ、ソ連と密接な連係をもつ小ブル国家が成立することになると演説。

11月 北伐軍が占領した湖南・湖北省で労働者・農民の運動が急拡大。湖南の農民協会員は140万人、湖北省総工会は30万人の労働者を結集する。

26年12月

12.07 江西省南昌近郊の廬山で「廬山会議」が開かれる。蒋介石と国民政府・国民党の代表が参加する。

廬山会議は蒋介石と共産党との関係にとり、一つの転換点となった。このあと蒋介石は態度を変化させ、武漢移転に公然と反対するようになる。

12.13 徐謙主席が招集した中国国民党中央執行委員会及国民政府委員の臨時聯席会議が武昌で開催される。国民政府と中央党部の武昌への移転が完了するまでは、臨時聯席会議が国民党の最高職権を行使すると決議。

12.16 コミンテルン中央執行委員会総会、「中国情勢の問題にかんする決議」を採択。中国共産党の任務として、「革命の一層の発展と帝国主義との妥協の間を動揺している中間派を、徹底的に批判すること」を掲げる。

これにより、共産党四期二中全会で決定された蒋介石との妥協路線は、公式に破棄される。ただしこのあとも水面下では、ヴォイチンスキーによる妥協の動きが存続する。

12月 国民革命軍、福州を占領。