1925年

1月 共産党第4回全国代表者大会。「民族革命運動についての決議」を採択。国民党は、運動の「重要な道具のひとつにすぎない」とし、労働運動を主軸とするヘゲモニー獲得に乗り出す。ソ連より帰国直後の彭述之が起草したといわれる。

2月 日本人の経営する上海の「内外綿紡績」で労働争議が発生。闘いは2ヶ月にわたる。

3.13 孫文、北京で死去。要を失った党内では左右の対立が激化する。

25年5月 五卅慘案

5月 広州で第2回全国労働大会。「中華全国総工会」の創立を宣言。

5.15 「内外綿紡績」で労働者の暴動が発生。日本人監督が指導者願正紅(共産党員)を射殺する。

5.18 国民党の三中全会。孫文の意志を継ぐとし、「宣言」の継承を決議。

5.24 願正紅を殉教者とする大規模な葬儀デモ。

5.28 中国国民党の上海委員会、30日に大規模なデモを決行するよう呼びかける。

5.29 青島の日本人紡績工場でストライキ。日本軍と北洋政府(実体は奉天軍閥の保安隊)の弾圧により8人の死者と数十名の負傷者、70数名の逮捕者を出す。

5.30 デモ当日朝に、学生運動指導者15人が租界警察に連行される。民衆が学生らの釈放と「租界回収」を求め、数千人規模のデモ。

「20万人が参加する上海市民大会。英日軍隊の永久撤退と領事裁判権の廃止を含む17項目の要求を、租界当局と北京政府に提出」という記事があったが他資料で確認できず。

5.30 租界当局は、英・日・米・伊の陸戦隊を投入。警察の発砲で学生・労働者に13人の死者と40人余りの負傷者が出る。(実際に発砲したのはイギリスのシーク教徒雇い兵だった)

25年6月

6.01 上海学生連合会はストライキ(罷課)を開始、上海総商会と上海各馬路商界連合総会に働きかけて公共租界の商店スト(罷市)を実現。

6.02 結成直後の上海総工会(委員長・李立三、総務主任・劉少奇)が全市に反帝ゼネスト(罷業)を指令。上海の22工場、青島の10工場(いずれも日本資本)でストライキが発生。

6.04 総工会と上海学連、全国学連、各馬路商界連合総会が、工商学連合会を結成。三罷運動の指導部を形成する。

ストライキ参加者は海員や港湾苦力を中心に15万人に達する。6月下旬には総商会の要求によって公共租界罷市は中止される。

6.19 省港大罷工(香港スト)が開始される。19日に香港、21日には広州の沙面租界の労働者が「上海5.30運動支援」を掲げストライキを開始。蘇兆徴(共産党)率いるストライキ委員会の下、広東と香が連携し港湾ストを15ヶ月にわたり続ける。

蘇兆徴: 古くからの船員活動家で、この年共産党に入党。27年の武漢国民政府では労工部長の要職についた。国共分裂後,八・七会議で臨時中央政治局に入り,ソ連に赴いたが,帰国後に病没。

6.23 広州市内の沙面島租界で、デモ行進に英仏両軍が機銃掃射を浴びせる。50人以上の中国人デモ隊が死亡し、120人以上が負傷。シャーキーの虐殺と呼ばれる。

7月末までに中国人25万人が広東省に去った。植民地はゴーストタウンと化した。
香港全体の貿易は、50%にまで落ち、海運は40%にまで減少した
。イギリス政府は経済を崩壊させないために300万ポンドの融資を行った。

7.01 広東で国民政府が成立する。汪兆銘(別名汪精衛)が主席に就任。広東国民党政権は一地方政権から全国革命運動の中心勢力へと成長。

8.12 ゼネスト体制の中核をなしていた日系紡績ストの復業交渉が妥結。碼頭苦力と海員のストも総商会の介入で妥結に向かう。上海の闘いは終焉に向かう。総工会指導部は闘争を英国系企業に絞り条件闘争に切り替える。

8月 国民党左派の指導者、廖仲愷が、右派に暗殺される。共産党から廖仲愷暗殺の首謀者とされた右派の胡漢民(大本営大元帥兼広東省長)は党中央から追放され、モスクワ送りとなる。

9.18 上海に進駐していた奉天軍閥の戒厳司令部が総工会本部を封鎖、指導者たちを逮捕する。5.30闘争は終焉を迎える。

25年10月

10月 北京政府内の軍閥抗争激化。華中まで南下した奉天軍閥の張作霖に対し、浙江軍閥の孫伝芳が反撃。反奉戦争と呼ばれる。

10月 武漢の呉佩孚が再起。武漢軍閥と組み、孫伝芳と連携し、馮玉祥率いる国民軍と対決する。(直隷連軍)

10月 共産党が拡大執行委員会を開催。「革命的民衆政権」とともに「工農商学兵代表の国民会議」と「国民革命軍の組織」などのスローガンを打ち出し、労働者の武装、労働者自衛軍の組織をすすめることを決議する

陳独秀は「革命戦争」の概念を提起。人民が武装してたちあがり、反奉戦争の指導的立場をかちとるよう訴える。瞿秋白も5.30闘争の敗北の反省から、人民の武装の問題を提起する。

25年11月

11月 郭松齢事件発生。張作霖麾下の最強部隊を率いる郭松齢が、張作霖に叛旗を翻す。関東軍が軍事介入し郭松齢軍を鎮圧。郭松齢は銃殺される。

12.02 西山会議(自称4中全会)。国民党左派の排除を狙う戴季陶らが北京郊外の西山碧雲寺で会議を開き、広東政府との対決姿勢を示す。広州の蒋介石は右派につながり、国民党左派・共産党ブロックと対立するようになる。

共産党員の譚平山、李大釗、于樹徳、毛沢東、瞿秋白、張国壽らを中央委員会から追放することを決議。ボロディンの顧問解任と汪精衛の党員権停止をもとめる。

12.23 上海のソ連領事館で、コミンテルン極東局のヴォイチンスキーと国民党中央派の孫科が会談。「連ソ・容共」の原則を確認した上で、共産党員の二重加盟問題解決の道を探る。

12.24 上記に陳独秀、瞿秋白、張国壽を加え会談。共産党員が基本的に国民党のポストから離れることについては同意。完全撤退及びボロディンの広州撤退については保留となる。

譚平山を中心とする共産党の広州グループは、「孫科らは西山グループと同断」として中央の方針に抵抗。汪精衛グループと連携し国民党支配を目論む。

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譚平山: 広東省の生まれ。教員を勤めた後北京大学に進学。5・4運動を通じて共産党に接近1920年、広東に共産主義グループ創設のため戻る。1921年の中国共産党成立以後、中共広東支部書記に任命される。1924年、中国国民党第一次全国代表大会で中央委員となり、国民党中央組織部長に就任。1927年8月、南昌蜂起に参加。蜂起失敗の責任を問われ党籍を剥奪された。