1923年

1月 孫文、「改進宣言」を発表。「連ソ容共」に転じる。ソ連代表のヨッフェと会談し「孫文=ヨッフェ共同宣言」を発する。「中国にとって最も緊急の課題は民国の統一と完全なる独立にあり、ソ連はこの大事業に対して熱烈なる共感をもって援助する」との内容。

1月 コミンテルンが「1月決議」を採択。「中国労働者階級は独立した社会勢力とはなっていない、国民党に党の独立性を保持したまま加入せよ」との指令を発する。

1.31 モスクワから帰国した瞿秋白が「政治運動と知識階級」を発表。ブルジョアジーに反革命勢力と革命勢力があると主張。

瞿(く)秋白: 苦学し北京のロシア語専修館に学費免除で合格。五四運動に参加し、李大釗らが主催したマルクス主義研究会に加入している。ソ連に特派員で派遣されている間に入党。23年に中国に戻り、新設された上海大学の教授となる。一方で「新青年」の編集を担当。国民党改変に伴い党から広州に派遣される。

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23年2月

2.01 中国最大の京漢鉄道(北京~漢口間)の労働者が総工会を結成。大会を鄭州で挙行する。直隷派の呉佩孚が干渉し、大会を武力で解散させる。

2.04 京漢鉄道総工会が京漢鉄道の全線で抗議ストライキに入る。

2.07 「ニ・七惨案」が発生。呉佩孚軍が出動。総工会本部のあった漢口の江岸鉄道工場で32人が殺された。ほか鄭州,長辛店などで死者40人以上,負傷者数百人,逮捕者40人以上を出す。被解雇者は1千人以上にのぼる。

2.21 第三次広東政府が成立。孫文は大元帥に就任する。

2月 民族資本家が主導する「旅順・大連回収運動」が展開される。日本に対し経済絶交を呼びかける。学生・労働者もこれに賛同し運動に参加する。

23年3月

3月 北京政府、「旅順・大連回収運動」の高揚を受け、日本に対し「21ヶ条条約」の廃棄を通告する。日本はこれを拒否。

4.25 陳独秀、瞿秋白論文を受け、「ブルジョア革命と革命的ブルジョアジー」を発表。国民党に革命的ブルジョアジーを指導して民主主義革命を遂行するようよびかける。

23年6月

6月 中国共産党の第3回全国代表大会。「広範な反帝国主義民族戦線の建設」の目標のもとに、「国共合作」の方針を確認する。

瞿秋白が階級分析に基づき国共合作の正統性を主張し、陳独秀・李大釗も同調する。
 蔡和森と張国壽ら「左派」は、「独立した労働者党を建設することは国民運動を破壊するのではなく、促進する。共産党を発展させる唯一の道は独立した行動だ」と主張。

6月 毛沢東、この大会で5人の中央執行委員会のひとりとして選出される。

7月 瞿秋白、「新青年」で「新青年の新宣言」を発表。「中国の真の革命は、労働階級だけが担うことになる。たとえブルジョア革命であっても、労働階級が指導しなければ成功できない」と強調。

7月 広州に派遣された瞿秋白、中央機関誌「前鋒」を発行。

23年9月

9月 毛沢東、湖南地区で岳北農工会を結成。10万余の農民が結集する。

23.9 蒋介石、3ヶ月にわたりソ連赤軍で研修。

10.06 コミンテルン代表ミハイル・ボロディンが広州に到着。孫文の軍事顧問として討議に加わる。

10.28 国民党臨時中央委員会が発足。共産党の譚平山、李大釗がメンバーに加わる。

10月 呉佩孚に代わり、直隷派の総帥曹錕が大総統に就任。選出にあたり多数の国会議員を買収する。

11月 軍閥を仕切る趙恒惕将軍、岳北農工会を弾圧。軍の攻撃により指導者67名が銃殺され、農工会は解散させられる。

12月 広州で国民党綱領の素案が作成され、上海執行部で討議が行われる。この討議には執行委員の他に蒋介石、瞿秋白(共産党員)も加わる。

23年 蒋介石、日本の陸軍士官学校を出た後、孫文の運動に加わる。ソ連を訪問し軍を視察。ソ連方式に強い反感を抱き帰国する。(となっているが、浙江財閥の代表として国民党に送り込まれた人物と見たほうが正確であろう)

23年 魯迅、「中国小説史略」を発表。


 

1924年

24年1月

1.20 中国国民党が広東高等師範学校の大講堂で第一回全国大会を開催。「新三民主義」を柱とする国民党宣言を採択する。

新三民主義: 民族主義、民権主義、民生主義からなる。1,帝国主義の侵略に対して民族解放と国内諸民族の平等、2,封建軍閥の専制に反対して民衆の自由と権利、3,土地集中と独占資本を制限して民衆の福利をまもる。この内判定・民生の問題で激論が交わされる。

1月24日 レーニンが死去。国民党大会は服喪のため2日間休会。

1.28 民主集中制にもとづき、党員の規律厳守を規定した「党章」が採択される。二重党籍の問題(跨党禁止)は、最終的には曖昧に処理される。

李大釗の発言: 共産党の組織を解体することはできないので、組織をのこしたまま共産党員一人ひとりが中国国民党に加入する。それは国民党の政綱を受け入れたからであって、本党に共産党の党綱を受け入れさせるためではない。加入したからには党の政綱を執行し紀律を遵守する。紀律を守らなければ懲戒すればよい。

1.30 国民党大会、役員を選出し閉幕。共産党員が中央執行委員24名中3名、17名の執行委員候補のうち7名を占める。大会後には譚平山と林祖涵がそれぞれ党中央組織部長と農民部長に任命された。ボロディンは国民党最高顧問となる。

2月 共産党が中央執行委員会を開催。「楽観しすぎてはならないが、国民党の宣言書には、国民精神が凝縮されている」と評価する。

5月 共産党が中央拡大執行委員会を開催。京漢鉄道スト敗北以来の労働運動の後退を克服し、鉄道・海員・鉱山など近代産業における組織を強化する。

5月 広州の長洲島にある黄埔に黄埔軍官学校(正式名称は中国国民党陸軍軍官学校)が設立される。ブリュヘルらソ連軍事顧問団10名余が教官に就任し、ソ連式の教育により将校を育成する。三民主義とマルクス主義が同時に教えられる。

蒋介石が校長に就任し、国民党幹部の廖仲愷・戴季陶はそれぞれ軍校駐在の国民党代表、政治部主任に就任する。教授部副主任、政治部副主任には共産党の葉剣英・周恩来がそれぞれ就任。1期生は350人。毛沢東も安源炭鉱の労働者や秋収蜂起の農民指導者を送り込む。

7.07 国民党右派から、共産党の分派活動を非難する「弾劾案」が提出されるが、胡漢民、汪精衛、廖仲愷らが「規律だけを基準とする」よう訴え、もみ消す。

7月 国民党の農民運動講習所が開設される。主任や教官はほとんど共産党員がしめ、のちには毛沢東が所長を務めるなど共産党の牙城となる。

24年9月

9月 第二次奉直戦争。直隷派に対して、奉天派(張作霖)が反攻。安徽派(段祺瑞)、広東政府(孫文)とも連合する。

9月 直隷派第3軍の馮玉祥が、張作霖の買収工作を受けて寝返る。曹を逮捕・拘禁して北京を掌握。これを機に直隷派は総崩れとなり、北京から一掃される。

張作霖の買収工作は日本陸軍の示唆によるとされる。旧清朝の一族は退位後も紫禁城に籠っていたが、馮玉祥により追放される。

9月 馮玉祥、孫文の北上を要請。

10月 孫文、北上作戦を宣言。全国統一を図る国民会議を呼びかける。

11月 段祺瑞が復活し、北京政府の臨時執政に就任。張作霖はその下で奉天・直隷・山東・安徽・江蘇をその勢力下におく。

11月 孫文が神戸で講演。大アジア主義を説く。

日本は功利と強権をほしいままとする『西洋覇道の番犬』となるのか、それとも公理にかなった『東洋王道の牙城』となるのか」が問われている。中国だけでなく全アジア被圧迫民族の解放に力を貸すことが、アジアで最初に独立と富強を達成した日本の進路である。

12月 彭述之がソ連より帰国。「誰是中国国民革命之領導者」で、「中国労働者階級は天然に国民革命の指導者である」と主張。また二段階革命が連続して進むか否かは、社会的な客観条件に規定されるとする。