1920年

1月 陳独秀、北京を離れ上海に移る。

3月 ロシア共産党極東支局のグリゴリー・ヴォイチンスキー(Vvedensky)、中国共産党創設の使命を帯びて訪中。北京大学でロシア語を教授していたポレヴォイ(Polevoy)を通じて李大釗と接触。

3月 北京大学で李大釗,鄧中夏らがマルクス学説研究会を秘密裏に設立。

4月 ヴォイチンスキー、上海で陳独秀と接触。これを受け、上海でもマルクス主義研究会共産主義小組が結成される。「労働界」を発行し、青年・学生の間に共産主義の影響力が広がる。

石川によれば、上海グループの中心は後に国民党右派の代表となる戴季陶だった。国民党内きっての理論家として上海で最もマルクス主義学説に通暁していたとされる。載季陶はその後孫文の反対を受けグループを離れた。
他に「共産党宣言」を翻訳した陳望道や李達、沈沢民、張聞天らがいる。 なおここで沈玄龍と書かれているのは沈玄廬のことか? 

7月 安直戦争が勃発。呉は曹錕と共に安徽派に対する事実上の宣戦布告。奉天派の張作霖と連合し北京を攻略。

7月 毛沢東らが湖南の長沙で、新文化普及のため「文化書社」を設立。

7月 段祺瑞が失脚。安徽派は直隷派に敗れ衰退する。

8月 陳独秀、李漢俊、沈玄龍、俞秀松、施存統(元アナーキスト)など上海小組グループが活動を強化。

上海小組をリードしたのは李漢俊(又名李人傑)。暁星中学・東京帝国大学で学び、18年に帰国。多くの翻訳書を通じて青年たちに影響を与えた。党の結成会議は李漢俊の自宅で行われている。武漢で工作活動に当たったが意見の違いから離党。26年には国民党に参加している。27年、軍閥により殺害される。

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 李 漢俊

9月 『新青年』編集部が北京から上海に戻る。党の刊行物として位置づけられる。

10月 李大釗、張国壽らが北京共産主義小組を結成。このほか長沙,武漢,済南,広州などで,国外では日本,フランスで相次いで共産主義小組が結成される。

11月 「新青年」とは別に秘密刊行物として「共産党」が発行される.

11月 上海小組、「中国共産党宣言」を制定。「共産主義者の目的は国際共産主義の理想に照らして,新たな社会を創る」ことと規定する。

12月 東京で「日本社会主義同盟」が発足。李大釗は創立時から会員に加わる。

 

1921年

4月 広州で国民党政府が成立。孫文が総統に就任する。「第一次国内革命戦争」が始まる。

広東は省の名前で、首都が広州である。ただ広州を指して広東と呼ぶこともある。広東省はむかし越と呼ばれたことから、越の別字である「粤」と表現されることもある。

7.23 上海で第1回中国共産党全国代表大会が開かれる。全国各地の共産主義グループから13名の代表が集まり結党が宣せられた。(成立記念日は7月1日と決定される)

石川によれば、6月に上海に到着したマーリンの督促を受けて、李達が各地の共産主義グループに参集の通知を送ったとされる。主な発言者は張国壽、劉仁静、李漢俊、利達らで、地方代表の毛沢東や董必武、陳潭秋らはほとんど聞くだけだった。北京代表の劉仁静はこの時19歳、「ラジカル」な言動で持て余されたという。

7.23 陳独秀が総書記に就任(ただし会議に出席はしていない)。李達、張国燾、毛沢東、董必武らが指導部を形成。 この時点で党員数は57名。

李達は湖南省出身で李漢俊と同じ東大卒。この大会で中央宣伝主任となるが、後に戦線離脱し北平大学法学院教授となる。張国燾については後述。董必武も日本留学組で、大会には武漢代表として参加している。文革を生き延び、国家副主席として生涯を終えている。

7.23 湖南省で農民運動を指導していた毛沢東は、湖南省代表としてこの大会に出席。その後湖南地区委員会書記となる。

12月 共産党代表大会に参加したレーニンの秘書マーリン(Marling) 、桂林で孫文と会談。このあと孫文は革命ロシアとの連合に踏み切る。

 

1922年

5月 共産党の指導下に、第一回全国労働大会が開かれる。全国のストライキは100 を超え,参加者は30 万人余りに達した。

4月 第1次奉直戦争。直隷派の呉佩孚が日本と結ぶ奉天派を打ち破る。張作霖はいったん満州まで撤退。

7月 中国共産党、第2回全国代表大会が開かれる。コミンテルンへの加盟に関する決議。行動綱領を確定する。

行動綱領: 当面の革命の性質は民主革命である。革命の対象は帝国主義と封建軍閥である。革命の原動力は労働者,農民,少ブルおよび民族ブルジョアの協力戦である。革命の目標は国の完全な独立、軍閥権力の打倒を勝ち取り真の民主共和国を打ち立てることである。そのためには国民党を含めた広範な「民主連合戦線」を結成しなければならない。

7月 雑誌『新青年』の最終号。この後内部対立により廃刊となる。(一説にその後季刊4冊,不定期刊5冊が出され,最終号は26年7月の〈世界革命号〉とあり)

8月 共産党が杭州西湖会議を開催。マーリンの提案にもとづき、国民党への二重加入の方針を決定。陳独秀は、階級未分化論と国民党=階級連合政党論を前提に国共合作の理論を構築する。

10月 直隷派の曹錕が「賄選」により大総統となる。呉は、洛陽を中心として独自の勢力圏確立を図る。

10月 華北最大の開欒炭坑(イギリス人経営)でスト。英国政府はイギリス資本の要請に応じインド兵を派遣、さらに北京の直隷派政権は保安隊を派遣して武力弾圧にあたる。

22年 アドルフ・ヨッフェ、ソ連の中国駐在代表として赴任。ヨッフェはソ連外交界の指導的人物で、革命期間中はトロツキーと行動を共にした。トロツキー追放直後に自殺。