チリの学生抗議運動

Ⅰ.はじめに

チリの学生抗議運動は2006年の高校生の運動に始まり、2011年に大きな盛り上がりを見せました。

残念ながら日本ではほとんど報道されず、たまのニュースでも覆面姿の学生が該当で暴れまわっている場面しか報道されません。

この記録も不十分なものですが、とりあえず皆さんに多少とも知っておいてもらいたいと思い作成しました。

チリの運動にはもちろん大きな前史があります。あの70年代のアジェンデ大統領と人民連合政府の闘いです。

合法的に権力を獲得し、民主主義の実現と社会体制の変革に向けて大きく踏み出したチリでしたが、その後1973年9月11日に悪名高いCIAとピノチェト将軍のクーデターで押しつぶされました。

何千もの人が軍により殺され、あるいは「行方不明」となりました。多くの人が捕らえられ拷問を受けました。国外亡命を余儀なくされた人たちもたくさん居ました。

その後、ピノチェトによる軍事独裁が長い間続くのですが、チリの人々は文字通り命をかけて不屈に戦い続けました。

そして1989年、ついにピノチェトを退陣に追い込み、民主政治を回復させたのです。

しかしその民主化は本当の民主化ではありませんでした。軍の実権はそのまま維持され、政府といえどもピノチェトにないし指一本触れることすら出来ませんでした。

軍は政府の言うことを聞かず、ときには政府をまったく無視して左翼勢力の弾圧を行いました。チリ共産党は国会の議席を失ったまま、孤立を余儀なくされました。

民主化を成し遂げた中道勢力は、ピノチェト時代の経済政策をそのまま踏襲し、むしろ新自由主義経済を推進していきました。

貧富の差はますます拡大し、経済成長とは裏腹に国民生活は困窮の度を増していきます。

きわめて雑駁ですが、ここまでが2006年、学生の抗議運動が爆発するまでの経過です。

Ⅱ.2006年、高校生の抗議運動 「ペンギン革命」

A) 闘いの始まり

4月24日、成立したばかりのバチェレ新政権が、学生の負担をさらにもとめる方針を発表しました。

そこには、大学共通入学試験の受験料を引き上げること、またバス料金の学生割引の対象を制限する内容がふくまれていました。

それは高校生の生活を脅かすだけではありませんでした。実はバチェレ新大統領は中道勢力の中でも左翼に属するとみなされ、新自由主義に苦しむ民衆の期待を集めていた人でした。だからこそ、その大統領に裏切られたという怒りが一気に爆発したのです。

26日、高校生のグループが行動を起こしました。サンティアゴのメインストリートであるアラメダ通りで、制服姿の高校生がデモを敢行したのです。

高校生の制服は白黒のツートンカラーで、ペンギンに似ていることから、高校生の抗議運動全体が「ペンギン革命」と呼ばれるようになります。

警察がたちまち襲いかかり、50人近くが逮捕されました。しかしこのデモは国民の共感と支持を呼びました。何よりも他の高校生たちの憤激を呼びました。

折しも5月1日のメーデーが各地で行われました。自らを組織するすべを持たない高校生たちは、メーデーの行進に参加することで抗議の意志を示しました。

警察はこれらの行動も容赦しませんでした。全国で高校生1千名を逮捕しています。このことからも、ピノチェト独裁政権時代の抑圧体質がそのまま残されていることが分かります。

バチェレ政権はこのような警察の横暴に対して情けないほど弱腰でした。「暴力は正しい手段ではなく、政府は警察の行動を支持する」との声明を出したのです。

血気にはやる高校生はこのような状況を我慢できませんでした。

5月19日、チリの中でも名門校とされるインスティトゥト・ナシオナルとリセオ・デ・アプリカチオンで、高校生たちが学校を占拠しストライキを開始しました。この衝撃はあっという間に国内に広がりました。わずか数日のあいだに、学園の占拠やストライキは14校に拡大しました。

占拠学生は高校生調整会議(ACES)を結成。学生用公共バスの無料化、大学統一試験受験の無料化、教育法の改正などを要求し、「5.30全国ストライキ」を呼びかけます。

ストライキ闘争の影響は高校生のみならず大学生、教員、労働者へと広がっていきます。各団体が相次いで支持声明を発表します。その広がりは底知れぬほど巨大なものとなりました。

5月30日、全国ストライキが打たれました。全国で320の学園が占拠されました。100校以上がストライキに参加しました。各地でのデモには、あわせて80万人が参加しました。

ほぼ根こそぎといっていいでしょう。

B) 政府の対応の変化

高校生の抗議運動が影響力を拡大するのを見た政府は、急遽、高校生との交渉に応じる構えを見せます。

バチェレ大統領はテレビ演説し、「高校生たちの要求を受け入れる。新たな教育政策を検討する。そのために大統領に直接つながる諮問委員会を設置する」と述べました。

30日の全国スト当日には、ジリッチ教育長官が現場に出て学生リーダーと第1回目の交渉を持ちました。この辺りの反応はさすがに素早いものがあります。

ところが警察はこの交渉そのものを潰しにかかりました。会談は国立図書館前で行われたのですが、図書館前に集まっていた高校生たちに、突然警察部隊が襲いかかったのです。

やることがめちゃめちゃです。公安部隊は催涙弾を撃ちまくり、700人余りを逮捕し怪我を負わせました。通りがかりの野次馬は言うに及ばず、個人宅にいた見物人も逮捕されました。報道関係者も襲われました。

警察の暴行はメデイアを通じて流されました。「クーデターの再現」すら思わせる光景に、世論は沸騰しました。警察は政府や世論をなめきっていたのだと思えます。

バチェレは怒りを爆発させました。「警察に治安の維持を期待しているが、昨日目撃したような出来事は到底受け入れることはできない」と発言します。そして特殊部隊の隊長と副隊長を含む10人の解雇を発表します。

警察は一気に孤立することになりますが、一向に平気です。「いざとなればバチェレもろとも捕まえてしまえ」くらいの勢いだったのでしょう。

この国の裁判所・司法機構は一貫して反人民・親ピノチェトの姿勢をとり続けていたからです。(一握りの良心的な判事もいましたが)

C) 力による抑え込み

学園占拠闘争をはじめてすでに3週間、ここいらが潮時とみたACESは、5日に打ち上げストを決行した後、7日にストの終了を宣言しました。

5日のストは国民的な抗議の高まりを象徴するものでした。高校生に加えて大学生、高校教師、トラック運転手、労働者の組合も連帯ストを打ちました。

警察は運動の拠点インスティトゥト・ナシオナルの封鎖に対し、催涙ガスや放水で挑発攻撃をかけました。反撃に出た高校生は次々と逮捕され、240人が拘留されます。

ここまでで逮捕者の異常な多さに驚かれるだろうと思います。4月26日に50名、5月1日に1千名、5月30日に700名、6月5日に240名という具合です。
我々もデモやピケで逮捕者を出しましたが、せいぜい逃げ遅れた2,3名が2泊3日の勾留となる程度でした。
これだけの人数を逮捕するのは、逃げるやつを追いかけるだけでは無理です。罠を書けて追い込んで一網打尽にしなければ不可能です。この逮捕劇は間違いなく流血を伴うでしょう。
このことだけ考えても、警察がきわめて攻撃的で暴力的であることが分かります。「愛される警察」などというモットーは考えも及ばないでしょう。

同じ日、バチェレ大統領が大統領諮問委員会のメンバーを発表。高校生にも6つの席が与えられました。バチェレはさらに、問題の責任を問う形で教育大臣と内務大臣(警察管轄)とを更迭しました。

高校生にとっては、とりあえず大成果といえるでしょう。

しかし約束された改革はなかなか進みませんでした。諮問委員会では「何を諮問するか」をめぐる入り口論議が果てしなく続きました。

2ヶ月が過ぎて学生のあいだに苛立ちが募り始めました。8月に入って相次いで高校生のデモが行われますが、相変わらず警察の対応は強硬でした。8月23日のデモでは2千人のデモ隊の1割、200人が逮捕されるにいたります。デモ自体が犯罪扱いされているのも同然です。

こうして高校生の闘争は徐々に沈黙を余儀なくされ、抑えこまれていくことになります。