『 満洲旅行の栞 』 東亜旅行社

チャムスは松花江岸にあり、ハルビンと撫遠との中間に位置し、十四万六千平方キロに及ぶ沃野を控えた東満の一大都市である。

明治末期までは戸数僅かに百余戸に過ぎなかった。大正五年ごろ、鶴立崗金鉱の開鉱山に倣って人口の増加を見た。それでも未だ三百余戸という状態で微々たる一部落であった。

しかし松花江岸に位置しながらも水害を蒙ったこともなく、この点では依蘭、富錦よりも恵まれていた。このことが今日の隆盛をつくる大きな素因となったのである。
 
図佳線の開通は、従来の物資輸送経路に一新機軸を促した。チャムスは朝鮮東北部の諸港とも緊密な関係を生じ、水陸兼備の貿易市場となった。

こうして松花江岸随一の良港として北東満州に於ける物資の集散輸出入、また貨物の荷卸地として、さらには全満屈指の商業都市として条件を完備した。そして、都市計画着手以来、僅々三年にして、近世都市の発達史上類の無い高速度の発展を示し ている。

また対岸には鶴立崗炭坑を控え、良質の水を有することとあいまって、工業都市としても将来を渇望されている。

昭和15年、人口は11万4300(内地人は1万1千)人を数えるにいたり、明日への大飛躍が期待されている。

有名な彌榮・千振の開拓地は南方十数里にある。

旅館:
 ・チャムス駅ホテル
  駅舎楼上
  室料 3,00 - 4,50
 ・伊勢屋旅館
  南崗大街
  二食付き 7,00 -12,00
  ・三光ホテル
  新興街
  二食付き 6,00 -12,00
佳木斯(チャムス)は、肥沃な土地が広がっていたとされます。一方、松花江の水運が主な交通手段だったため、陸の孤島といわれた時期もありました(ハルピンから船で一晩程度の時間がかかった)。

その後、鉄道網の発展に伴い、街は発展しました。

昭和12年には図佳線(佳木斯と朝鮮半島の東側の付け根の図們を結ぶ)、昭和15年に綏佳線(綏化~佳木斯間)、対岸の蓮江口からは浜北線(ハルピン~北安)と便利になったことによります。

特に大連を回って佳木斯へ着くよりも日本海を横切るほうが交通費を安く出来ることとなりました。


http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/9/0/90e72c55.jpg

ここまでが 「みに・ミーの部屋」からの引用です

http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/20131008/chamusu.html

満洲移民の最前線たる佳木斯を訪う

大阪毎日新聞 1933.8.1-1933.8.2(昭和8)

ハルピンから地広く人稀な見渡す限りの曠野をのたうって流れる大松花江に沿うて下ること約四日、地勢は次第に開けて山影も殆ど見らなくなって、一帯の低湿 地帯に移ろうとする松花江畔に佳木斯がある。

満洲全体から観れば東北隅の露国国境にほど近いところ、ここにわが国の満洲移民団の最前線が設定されている

一口に佳木斯というが、第一次移民団の永豊鎮(移民団ではこれを弥生村と命名している)は佳木斯から17邦里(64キロ)彼方にある。

佳木斯を出ると間 もなく丘陵重畳行手に横たわっている。なだらかな青い起伏、ボブラ、白樺などの並木。ここほど日本ら しい感じの濃いところは珍しい。

移民団が修築した「弥生街道」のところごろには「いやさか橋」「やまと橋」などの橋の名が目につく。

トラックに揺られつつ佳木斯を出てから五時間、私は遥かの山麓に日満両国旗がへんぼんとはためいている部落を発見した、目ざす永豊鎮だ

以下略