こんな学校があったことは知らなかった。

佳木斯と書いてジャムスと読む。濁らずにチャムスともいうようだ。旧満州に存在した医学専門学校である。

児玉健次さんの「15年戦争と佳木斯医科大学」という論文で、この学校のことが紹介されている。

 

1.チャムスの位置

まずは旧満州国の地図を広げてみよう。

 

http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/4/4/444727e1.jpg

ウィキペディアには以下のように記載されている。

満州国が建国されると新設された三江省の省都となり、周辺の穀倉地帯の拠点として、また沿海地方のソ連軍に対する将来の戦争の際の防衛・侵攻の拠点として重要な都市とみなされ、輸送・軍事用の鉄道などが整備された。

1937年には図佳線(図們-佳木斯)、1940年には綏佳線(綏化-佳木斯)が開通し、東満州一帯の農産物集積地となった。1937年には市に昇格している。

満州国時代には初期の武装移民団はジャムス南方の広大な沃野に入植し、弥栄村がその代表としてしばしば日本に紹介された。

 

2.前線に建てられた大学

満州には5つの医科大学があった。

新京医科大学(国立): 1929年吉林医学校として創設され、1935年吉林国立医院附属医学校(修業年限四年)と改称。さらに1937年新京医学校と改められ、ついで1938年1月新京医科大学として国立大学に昇格した。

哈爾濱医科大学(国立): 1926年9月に浜江医科専門学校として設立され、「満州事変」後も認可され存続。1938年、「満洲国」政府の大学令によって国立哈爾濱医科大学に改編された。

佳木斯医科大学(国立): 日本の移民政策に伴い、1940年、佳木斯医科大学が新設された。教職員及び学生は全部日本人であり、他の民族の者はいなかった。(若干の非日本人学生がいたことは後述のとおり)

満州医科大学: 南満医学堂(医専)が1922年に、日本の大学令による満州医科大学として再編され、満鉄によって経営された。東北地方で規模が最も大きい学府であった。

盛京医科大学: 1911年私立奉天医科専門学校として創立され、1939年2月に盛京医科大学と改称。

こうして並べてみると、チャムス医科大学の特異性がよく分かるだろう。まさに前線の大学であり、医学を学ぶこと自体が、直接軍事目標の中に据えられていたと考えてよい。

ここに卒業生の談話があるので紹介させてもらう。

…北海道・東京・福岡で入学試験があって、合格した人が満州に行くのです。満州は遠かったですね。飛行機なんかありませんから、長野から列車で名古屋経由でまず門司港に行き、船で釜山をめざします。そこからまた列車でソウルに入り、大学のある佳木斯(じゃむす)まで延々5かかりました。

私はそこの3期生でしたが、3期生全80人のうち70人は日本人、残り5人ずつが韓国と中国の方でしたね。

 

3.佳木斯医大、なにが問題か

当然バリバリの軍国主義者が幅を利かせていたようだ。初代の学長は相当の大物で、陸軍軍医学校長、軍医総監を歴任した寺師という軍医中将である。

教務主任を務めたのが正路倫之助という生理学の教授で、この人物が731部隊と浅からぬ関係にあったとされる。

児玉さんの研究によると、京大生理学教授を兼任する正路は、京大の若手医学者を731部隊に送り込んだらしい。

これが悪役の一人。

もう一人が、こちらのほうが大物だが、北野政次という人物である。

この人は佳木斯医大ではなく満州医大の細菌学の教授だが、現役の軍医大佐でもあり、後に731部隊の隊長を勤めることになる。

この人が前線の佳木斯で“研究”を推進しようと考えた。そこで派遣されたのが岩田茂という人である。この人が41年4月に佳木斯医大に着任し、新設された細菌学教室の教授に就任した。

そこでどのような研究が行われたかは想像に難くないが、細菌戦の研究が行われたであろう状況証拠として、児玉さんは次の事実をあげている。

すなわち、関東軍司令部で731部隊の業務を担当した竹田宮参謀が繰り返し佳木斯医大を「査閲」していることである。

*「15年戦争と日本の医学医療研究会会誌」第8巻第1号(2007年10月)



滋賀医大の西山先生の論文が閲覧できる。題名は

「15年戦争」への日本の医学医療の荷担の解明について

というものである。(15年戦争 - 「戦争と医の倫理」の検証を進める会

このなかで、石井四郎の京大への影響力、正路教授の果たした役割が明らかにされている。

 もご参照ください。


その後児玉さんが情報を追加されているので、それも併せて紹介させてもらう。


佳木斯医科大学は1940年6月1日に開学した。

満州国の国立で、当初より医専ではなく単科の医科大学であった。

修学4年、全寮制、貸費制の下に日本全国から学生を募った。

建学の目的は「開拓民に対する医師を養成」し、「軍人医学を提唱、一朝ことある場合は全員こぞって参加国家に奉仕せしめる」ことであった。

1期生の入学者は82名、うち中国出身、朝鮮出身は各3名、ほかは日本国内出身で北海道、長野、鹿児島出身者が多かった。