落合道人さんのブログに「目白通りを往来した伊藤ふじ子」という記事があって、とても詳しい。
伊藤ふじ子は1911年(明治44)、山梨県北巨摩郡清哲村(現・韮崎市)に生まれ甲府第一高女を卒業している。1928年(昭和3)5月に東京へやってきて、知人のつてで石川三四郎・望月百合子の家へ下宿している。
伊藤ふじ子は、絵の勉強をつづけるかたわら、さまざまな職業に就いている。1929年(昭和4)には上野松坂屋の美術課に勤務していたが、すぐにそこを辞 めて明治大学事務局に転職している。彼女は明治大学で働きながら、長崎町にあった「造形美術研究所」へ通いはじめた。
造形美術研究所は、三科がプロ芸派と造形(型)派に分裂したあと、造形(型)派の拠点になったところで、1929年4月に同所へ設立されている。伊藤ふじ子が絵を学びに通いだした翌年、1930年(昭和5)6月から「プロレタリア美術研究所」と改名されている。東京へきてからわずか1年ほどで、共産主義運動に惹かれたと思われる。
伊藤ふじ子は、日本橋にあった銀座図案社にも非常勤で勤務し、グラフィックデザイナーとして働きはじめた。彼女が担当したク ライアントは、東京芝浦電気(現・東芝)の宣伝部だった。ふじ子は演劇にも興味をもちはじめ、労農芸術家聯盟の「文戦劇場」で女優としても舞台に立っている。
1931年(昭和6)の春、ふじ子は新宿の果物屋の2階に下宿していたが、そのころ刑務所を出たばかりで保釈中の小林多喜二と親しくなった。
ここに例の角筈の伝単貼りとすき焼き屋のエピソードが挟まるんですね。
そして、多喜二が地下潜行中の1932年(昭和7)の春にふたりは結婚している。
翌 1933年(昭和8)2月20日、多喜二はスパイの手びきで赤坂区福吉町の喫茶店におびきだされて逮捕された。そしてその日の内に築地署で虐殺されてしまった。
ふじ子にとっては、わずか1年たらずの結婚生活にすぎなかった。
伊藤ふじ子は多喜二の死後、下落合に下宿し、「クララ洋裁学院」へと通いはじめた。多喜二の死後、「手に職」をつけてひとりで生きていく決心をしたからだと思われる。
しばらくすると、伊藤ふじ子は帝大セツルメントで、近所の女子工員たちを集めて編み物や和裁、洋裁などの教室を開いている。
伊藤ふじ子がプロレタリア漫画家・森熊猛と知り合ったのは、このころだった。森熊猛は、1909年(明治42)生まれで小林多喜二よりも6歳年下だった。札幌の北海中学校で左翼美術運動に触れ、その後上京した。
彼女が風邪を引いて寝こんでいるとき、森熊猛が薬をもって見舞いに訪れプロポーズしたといわれている。
1934年(昭和9)3月、伊藤ふじ子は日本赤色救援会(モップル)に参加していたという理由で特高に逮捕された。留置所から釈放されたあと、彼女は帰るところがなくなり、森熊猛の下宿を訪ね、そのままふたりはいっしょに暮らしはじめて結婚している。
伊藤ふじ子は、小林多喜二の分骨を終生大切に保管していたという。多喜二の葬儀に立ち合っていない彼女が、なぜ分骨をもっていたのかは明らかでないが、1981年(昭和56)4月にふじ子が死去すると、森熊猛はふたりの遺骨を合葬して同一の墓所に納めている。
多喜二の通夜の席にいきなり伊藤ふじ子が飛び込んで来て泣いたら、参列者はいぶかしがったかもしれない。
しかし地下生活の中では、知られないのが当然だったと思う。知らない側の人間が知ったふりしてとやかくいうのは、まことに馬鹿げた話だ。
それやこれやで「ハウスキーパー」説が風靡したのかもしれないが、多喜二が本当に惚れたのは田口タキさんではなく、やはりふじ子だったと思う。
甲府第一高女出で、フランス帰りの望月百合子の薫陶を受けたパキパキのモダンガールだ。西洋かぶれの多喜二なら、おそらく有頂天だったろう。
ひょっとしたら、口説き文句に「党のためだ」くらいは言ったかもしれない。
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