クラウディオ・アバドが共産党員であったことはありません。しかし親の代からの筋金入りの左翼ヒューマニストでした。

ムーティとの関係ですが、基本的にはムーティが変わったのだと思います。ムーティはこの10年間で見違えるように良くなりました。何があったのでしょう。

Langsamer Satz さんのページ

1973年、VPOとの初来日のベト7の演奏と、彼が広島の原爆資料館を訪れた時の映像が貴重。また、若者向けの演奏会でポリーニと一緒にノーノを演奏し、聴衆に語りかける姿も胸を打つ。

ポリーニと共に共産党員であったというアバドの「思想」を垣間見ることができる。

TOWER RECORDS ONLINE 2013年9月25日

アバドはミラノの名門音楽一家の出身にもかかわらず、いや、それだけに芸術家の社会的使命を自覚し、政治的立場を鮮明にすることも辞さなかった。

頭角を現 した1960年代後半から70年代初頭にかけて世界で学生運動の嵐が吹き荒れた。

イタリアでも貴族出身のエンリコ・ベルリングェル書記長率いる共産党が勢力を伸ばし、「ユーロ・コミュニズム」を開花させた。

アバドもベルリングェルに共鳴したのだろう。盟友のピアニスト、マウリツィオ・ポリーニとともに工場労働者のため に無料演奏会を開き、「マオイスト(毛沢東主義者)」呼ばわりされたこともあった。

…1984年。首席客演指揮者を務めていたシカゴ交響楽団とベルリオーズの「幻想交響曲」を録音した際、第5楽章に広島市の平和記念公園にある「平和の鐘」の音を採用した。

…2003年に高松宮記念世界文化賞を受賞した後の記者会見で、アバドの「気骨」を実感した。

…突然、「多様性を容認しない人間は、政治家になれない」と言いだした。

そして「メディアの8割を1つの資本が独占し、その経営者が首相を兼ねる我が国(イタリア)は、民主制には程遠い」と、ベルルスコーニ首相を名指しで批判した。

会見に居合わせたフィアットの総帥らはみな渋い顔だったが、語気は鋭さを増すばかり。会見後の懇親会でも、批判の手綱を緩めな かった。

アバドが最晩年にルツェルン音楽祭に心血を注いだのも、トスカニーニ以来の反ファシズムの伝統を守る思いがあったのかもしれない。

38年にオーストリアがナチス・ドイツとの併合に動いていると知ると、ザルツブルク音楽祭での指揮をキャンセル。ファシストやナチスの迫害を受けた音楽家 をルツェルンに集め、湖畔のワーグナー邸前でガラ・コンサートを開いた。

これがルツェルン音楽祭の始まり。トスカニーニからアバドへの太い線がつながっている。

Deceptive Cadence  January 21, 2014

アバドは「ラ・レプブリカ―ナ」紙に次のように語っている。

第二次世界大戦のとき、アバド家は、ムッソリーニへに対して強烈な反発を示した。そして反ユダヤ主義とファシズムに対しても反対した。

私の母はイタリアの反ファシズムのパルチザンに援助した。またユダヤ人がスイスに逃げこむのを助けた。

母はユダヤ人の子供をかくまい、そのために投獄された。

まだ子供の頃、アバドはそれらの話を繰り返し聞かされた。12歳のときアバドは役場の壁にこう書いた。“VIVA!”

ゲシュタポがとんできた。そして近所中でパルチザン・バルトークを探しまわった。

いま、大人として私の政治的懸念はただひとつ、ファシズムを許すなということだ。

WQXR January 21, 2014

60年代末、アバドはミラノ・スカラ座の音楽監督だった。彼は大衆のなかに音楽を持ち込んだ。

学生、労働者、失業者…すべてのものが演奏に接することができた。彼らはそれまでの生涯で経験したことのない音楽に身を晒した。

実際、アバドは楽団を引き連れて歌劇場から飛び出した。学校へ、そして工場へと出向いた。

そのころ彼の演奏したヴェルディとロッシーニは、私がこれまでに聞いたなかでもっともグレイトなものだ。いまでも私は彼の録音に戻ることがある。それは彼から学ぶためでもあり、そこからインスピレーションを得るためでもある。


それで、追悼の気分も込めて、マーラーの復活を聞いたが、やはりなんとも面白く無い。
脱脂粉乳みたいなマーラーである。1時間半もお経を聞かされてはかなわない。やはりバーンステインみたいなケレン味たっぷりの演奏がいいな。
確かにスカラ座時代が華で、偉くなってからはスカかも知れない。