黒田航さんの文章を読んでの感想だが、一言で言えばソシュールの全面否定とシュライヤーへの全面回帰である。
シュライヤーの所説というのは、結局、言語を手がかりにした人類学である。
言ってみればミトコンドリアとかY染色体で、「あぁ一緒や」というふうに印欧系種族を束ねたのと一緒だ。印欧系という一つのケーススタディーにすぎない。それに「言語学」などと命名するなどもっての外だ。
もしシュライヤーを批判するなら、そうやって批判しなければならないのに、ソシュールはそれをもっと言語一般に拡張しなければダメだと主張する。そうしてフリーズドライの「言語学」を打ち立てるわけだ。
黒田さんの作業は、とりあえずソシュールの手から言語学を取り戻そうということで、それは正しい。そしてシュライアーのところに戻る。
戻るときに黒田さんは一工夫する。粉末にしたラーメンスープにお湯を注いでも粉末になる前のスープには戻らない、そこにはイキイキとした言語活動があったはずだ。言語というのは記号ではなくて「生きた活動」であったはずだ。
シュライヤーへの回帰はたんなる回帰ではない。それは言語活動の生活行動一般からの切り離しと再結合だ。そのために彼はウィトゲンシュタインを持ち出すが、じつは言語と言語活動との関連はヘーゲルで十分なのだ。なぜなら人間的活動は人間的ツール(記号・シンボル)を用いることにより初めて人間的活動となるからだ。

「言語学」はもっとフィールドワークに集中しなければならない、という黒田さんの意見にはまったく同感だ。「同一性と差異」の実例をもっと集めて、帰納的に共通性を抽出しなければならない。人類学だって社会学だってみんな学者はそうしている。それでこそ実証科学なのだ。