亀井秀雄さんという人が

1960年代後半のキーワード:土俗・土着

という文章を書かれていて、なるほどと思い当たるところがあった。

6全協、ハンガリー事件、構造改革論争とつながる中で、一方ではソ連とつながる「正統国際派」の人たちが宮本指導部と覇権を争い、敗れ去った。

もう一方ではトロツキズムが学生運動の主流派と手を握り、かなりの影響力を保持した。

ここまではマルクス主義の枠内の論争だった。

そのうち変な連中が出てきて、典型的なのが吉本隆明で、左翼なのか右翼なのか文筆ヤクザなのか良く分からない。

こういう連中が、全共闘運動とつながって一世を風靡した。

その辺りを世代論から整理してくれている。

おそらく講演の起こしなのだろうと思う。わかりやすく格調もある。

少し抄出しておく。


1)近代主義批判としての土俗・土着

「土俗」または「土着」という言葉は、「近代」に対する対義語として使われ、近代以前から続いている日本人の習俗や心性を意味しました。

これらの言葉は民衆を意味し、合理的な知性に対する非合理的な情念を意味しました。

それらは、近代化の立ち遅れた部分で、改革をはばむ保守・反動勢力の温床と貶められて来ました。

「土俗」または「土着」という言葉を使った人たちの批判は戦後の改革をリードしてきた知識人に向けられていました。

彼らの批判は、戦後の政治過程と思想過程に対する不満において共通していました。

彼らの主張は。「土俗・土着」的なものの主体性を復権し、そこから変革のエネルギーを引き出すことだった、と言えるでしょう。

しかし、非合理で保守・反動的な情念は、歴史的事実として、天皇制を推進し、近代の日本国家が戦争にのめりこんでゆくエネルギーの根源でもありました。

その事実に対してどのようなスタンスを取るか。それによって思想的なポジションは、新左翼から新右翼まで別れました。

2)戦中派の世代論

彼等の戦後批判、あるいは近代批判は、いわゆる戦中派の世代的な自己主張でした。

戦中派とは、1920年代に生まれ、1940年前後に思想の形成期を迎えた世代を指します。

ちなみに、橋川文三は1922年生まれ、井上光晴は1926年生まれ、吉本隆明は1924年生まれでした。

彼らが思想形成期を迎えた1940年前後には、すでにマルクス主義の運動は壊滅してしまっており、反戦・平和思想に接する機会もありませんでした。

国家を運命共同体として理解し、国家の行なう戦争で死ぬことを、一種の運命愛として受け入れてきました。

「土俗・土着」論者の主張は、戦後の民主主義思想に対する、怨念とも言えるものでした。

戦後の価値観からみれば、罪悪でしかない戦争、間違った思想を信じていたことになるが、それでは、あの戦争の理念を信じて戦地に赴いた同世代の人たちの死は、全くの無駄死にでしかなかったのか。

日本の兵士のなかには、戦争を疑うことを知らず、精一杯の誠意と善意をもって戦地の人たちと接しようとした者もいるが、彼等の行為もまた罪悪でしかなかったのか。

3)小林よしのりの戦略

小林よしのりという劇画の作者が『戦争論』(1998)を出し、南京大虐殺などの信憑性が疑わしいことを指摘しました。

彼はいわゆる戦中派世代の人たちをお爺ちゃん、お婆ちゃんとして登場させ、その人たちに戦争体験、戦争下の青春体験を語らせます。

そして「この人たちは戦争の大義を「信じ」て、愛する者のために銃を取った」と受け止めます。

そして、「東京の軍事裁判」は戦勝国が敗戦国・日本の戦争犯罪を一方的に裁いた「集団リンチ」裁判だと断定するわけです。

私の見るところ、彼の『戦争論』を批判する歴史学者や市民運動家はその手口を解体できていません。

その理由は、1960年代後半に現われた戦中派世代の思想的な営為と「対決」して来なかった、きちんと対話をして来なかったからです。

4)北一輝と高見順

北一輝は、欧米列強に対する「土俗」の反感に初めて思想的な表現を与えた革命理論家だったと言えます。

彼は、「持てる国」の支配からアジアを自立させることを、「持たざる国」の日本の世界史的使命と考えました。

そして、そのために、まず日本の国家を改造しなければならない、と考えました。

そして、国家改造の中核的な主体を「在郷軍人」に求めました。

在郷軍人は「兵卒ノ素質ヲ有スル労働者」だからです。この 「労兵会」がロシア革命をモデルにしたものであることは、言うまでもありません。

その国家構想のなかには、私有財産の制限というプランも入っていました。

高見順は戦中派世代より一世代上で、マルクス主義の洗礼を受けています。

彼は『いやな感じ』という小説で北一輝を扱っています。その小説の主人公はかつて反権力のアナーキストだった男です。

彼は、陸軍の上層部の権力争いとかかわるうちに変貌してゆきます。彼は、中国大陸の戦場で、本当に中国兵だったかどうか疑わしい「捕虜」を、面白半分に斬り殺してしまいます。

反権力主義的な情念が隣邦に対する攻撃性に変質してしまう逆説は、「戦中派」に対する鋭い反撃となっています。