書評欄に「第九誕生―1824年のヨーロッパ」という本の紹介があった。
別に食指を動かしたくなるほどの本ではないが、1824年という年に注目すると、決して希望に満ち溢れた年ではなかったことが分かる。むしろフランス革命・ナポレオン政権という疾風怒濤の時代が終わりを告げ、メッテルニヒ反動の日々に移行していた。
その反動の中心地であるウィーンで作曲活動をしていたベートーヴェンにとって格別面白い日であったはずはない。
だから「歓喜の歌」というのは、その底に鬱屈をはらんだものであった。
「友よ、このような歌ではない」との叫びに「歓喜の歌」の時代的本質があったとも言える。

作者ハーヴェイ・サックスは、この第九が作られた前後にヘーゲルが「精神現象学」を書いていることにも注目している。そしてそれを「第九」の哲学版、ゲーテの「ファウスト」を文学版と比定している。

苦悩を通して歓喜へ、という流れは自己意識の流れと一致しているというのだ。作者はそれを「一人称の導入と主張」と呼んでいる。

反逆は罪ではなく自己の、「自己」達の発展なのだ。だからそれは、誰にも押さえつけることのできない摂理なのだ。

そういうつもりで、もう一回行くか。