ドマニシ原人 獲物(食われるもの)としてのヒト

でこう書いた。

私としては一番衝撃的なことは、ドマニシ原人の「食われるものとしてのヒト」という性格だ。人は雑食で植物も採れば動物もとる。しかし食う側であって食われる側ではない。

もし食われる側から食う側に立場を変えたとすれば、それは人にあらゆる面での発想の逆転をもたらすであろう。

もうひとつは、彼らが肉食獣の捕食の対象となるほどに濃密に存在していたということである。つまり彼らは肉食獣に怯えつつも、それなりの繁栄を維持していたことになる。

「食われるものとしてのヒト」でグーグル検索をかけてみたら、「人は食べられて進化した」という本が出ていて、結構なベストセラーのようだ。

本そのものは読めないが、目次が紹介されている。感想文もいくつか読める。

目次を見るかぎり割と読み物的な文章のようだが、「訳文が硬くて読みづらい」という感想がある。相当の悪訳なのであろう。

私の経験で言うと、こういうブラックユーモア的なわさびを利かせた文章というのは、外国人には非常に読みづらいものだ。相当まで意訳してしまうしかない。http://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/1/3/1312cb4f.jpg

原著は「Man the Hunted」、副題は「Primates, Predators, and Human Evolution」で、私の狙い通りの題名だが、「人は食べられて進化した」という邦題はだいぶ違う。

元々、人間は狩人として進化を遂げたのだという「Man the Hunter」というセオリーがあって、そのセオリーに背負い投げを食わすのが目的の文章のようだ。

「人は食べられて進化した」というのはつけたしだ。目次を見てもそのように見える。読者の感想が「難しい」というのも、ひとつはその辺りに理由があるのかもしれない。

人が元々食べられる存在だったということは、人間の心性や社会的性格に大きく影響しているだろう。そのことはよく分かる。

しかしそれがヒトの「進化」に影響しているかどうかは別の話だろう。インパラやガゼルはずっと昔からライオンやヒョウに食われ続けてきた。だからライオンやヒョウ以上に進化してきただろうか。

読みもしないで偉そうなことは言えないが(と言いつつ言うのだが)、翻訳者の最大のヘマであろう。

草食動物は、如何に高度に社会組織を発達させようが、生えている草を食べるだけの存在だ。自然の恵みに対して受動的でしかありえない。

様々な知恵や技術は、狩りをすることによってしか、すなわち自然に対して能動的になることによってしか獲得できないのではないか。

しかし、では肉食動物はより進化した存在なのかといわれると、さすがに躊躇せざるを得ない。ずるい言い方になるが、食われる側でありつつ食う側に回ることで、その相乗効果によって進化を遂げたのだろう。

そのきっかけは、草食だけで食っていけないような厳しい環境の到来だったのだろう。草木果実を食べ、食われることによる消耗を、それを上回る繁殖で補っていた人間たちが絶滅に瀕した時に、その一部がその環境に反逆したのである。

そして「禁断のリンゴ」は他者の肉であった。まさに「原罪」である。