1948年

2月 非合法下に奄美青年共産主義青年同盟が結成される。東京から久留義蔵夫人の弟小西文雄がオルグとして派遣され、指導に当たる。

4月 日本共産党第6回大会が行動綱領を決定。第27項で「朝鮮および南方諸国の完全な独立」をうたう。

青年運動の興隆と弾圧強化

5月18日 崎田実芳らにより新四谷青年団が結成される。新青年団活動の牽引車となる。(「新」は沈滞した従来の青年団活動に代わる新たな性格の青年団という意味で、「新四谷」という地名ではない。四谷は名瀬の南郊の町で、病院や学校の集中する住宅街)

5.22 共産青年同盟の大衆化の方針に基づき奄美青年同盟への改組が進められる。結成準備委員会の主催で「青年弁論大会」が開かれる。

6月19日 教科書密航団が出発。新教育関係図書購入のため金十丸で本土へ向かう。

7月11日 奄美青年共産主義青年同盟を発展的に解消し、合法的な政治結社「奄美青年同盟」を結成。奄美共産党の青年党員を中心とし、大島中学の社研メンバーが参加。委員長に森田義治。

8月15日 奄美青年同盟の結成記念講演会が開かれる。聴衆1000余名。軍政府は講演会途中で解散を命令。

「独立」から「復帰」路線への転換

8月26日 日本共産党の中央委員会総会、これまでの「独立」路線を変更。沖縄・奄美大島の日本復帰を決議。これを受けて奄美共産党も本土復帰を打ち出す。

8月 「赤旗事件」が発生。中村安太郎らは占領政策に反する発言を行ったとして逮捕・投獄される。

9月 奄美官公庁職員組合が結成される。復帰運動の主要な柱の一つとなる。

10月末 奄美青年同盟の認可申請が却下される。奄美共産党は青年同盟の建設を断念し、既存の合法組織である「奄美大島連合青年団」の再健強化の方針を採択する。

11.28 中村安太郎に対し重労働1年、『奄美タイムス』主筆および北部南西諸島法制改訂委員会副委員長を解任する判決がくだされる。

1949年

49年 大量の復員者を受けて島内の生活苦が深刻となる。摂取量1800カロリーとして1年で9万トンの食料が必要なのに対し、1万トン以上が不足している状況。

49年 軍政府、窮乏した奄美の失業者を沖縄の基地建設に投入するため、沖縄への渡航許可制を廃止。

1.31 軍政府、食糧補給50%を35%に引き下げ、同時に値上げ実施。米価は約6倍となる。児童4874名中、病欠者が161名、欠食者が693名に上る。

1月 奄美共産党、「日本復帰を民族運動として取り上げる」と決定。「奄美人民政府樹立」の綱領では民族問題は解決できないとされる。

3月14日 奄美大島連合教育会が連合教職員組合(連教組)に改組される。以後、復帰運動内の右翼的潮流の代表として分裂策動を繰り返す。

「三倍値上げ」政策と生活擁護協議会

5月1日 アメリカ軍政府、低物価政策を廃止し、食糧,衣料,燃料,農器具,肥料等の「放出物資」価格を三倍に値上げすると発表。副知事笠井純一は軍政府に撤廃を申し入れ。奄美共産党は全郡的な大闘争の組織化に乗り出す。

5月3日 市町村長と経済復興委員会の合同会議が開かれる。「生か死か」「食糧値下げ一本槍で進め」「すべての妥協案に絶対反対」などの意見が飛び交う。15名の官民合同陳情団を沖縄に派遣することを決定。議会も当局も「陳情委員会」に参加し、官民一体のたたかいとなる。

5月25日 名瀬市連合青年団が結成される。①青年の社会的質的地位の向上 ②平和奄美の建設 などを綱領に掲げる。団長に大山三津司,副団長に崎田実芳。

7月6日 奄美共産党の呼びかけで全大島生活擁護協議会が結成される。①食料価格の引き下げ、②1日2400Cal の配給基準確保、③非常用食糧の確保を目標とする。

7月8日 生活擁護会の呼びかけで郡民大会が開催される。夜7時半から名瀬小学校校庭で行われた集会には約1万名が参加し、軍政府を震撼させる。

7月9日 中江知事と政庁の各部長とが辞職を表明。軍政府により却下される。経済復興委員会は総辞職を宣言。

8月5日 アメリカ軍政府、「メンバーの中に共産党員がいる」との理由で「奄美大島生活擁護協議会」に解散命令。三倍値上げは「一時延期」となる。

8月 解散した生活擁護会に代えて、婦人生活擁護会を結成。中村安太郎の妻光枝や松岡百代・松江朝子らが中心となる。

8月 宮崎県在住の奄美出身者が大島町青年団を結成。祖国復帰の呼びかけを発する。

9月5日 市官公庁職員組合・婦人生活擁護会・市連青の共催による市民大会。食糧3倍値上げの反対運動がさらに盛り上がる。

11月7日 市連青、市政汚職を告発。問題真相報告大会を開く。1000余名が参加。

11月7日 市青幹部が検察庁を訪問。市長に対しざらめ糖やHBT不正事件に関して質問を浴びせる。青年団と政治ボスとの対立が激化する。

12月7日 軍政府、青年団を反米的政治団体と非難。主席名で改組と役員の更迭を指令。10日後に抗議を受け撤回。