4.中世の医学についてのシッパーゲスの見解
医学は霊的釈義の学
医学もまた創造されて世界の,大宇宙と小宇宙の,またそのなかに含まれた健康な人間,病いに陥った人間,救済すべき人間の,霊的釈義の学である.
生理学はこの宇宙論的側面の下で,人間の健康な環境のあらゆる生態学的諸関係を,正統というよりはむしろ矯正生活学,すなわち理性的に生きる技術を,包括し ている.
病理学は生活史的危機と「病める人」のあらゆる実存的欠陥から宇宙的破局へと拡大される.
治療学はといえば,困窮に悩む人,悲惨なるものへの奉仕であり,結局は失われた世界を崇高なる創造へと連れ戻すことにある.
(現代の医学・医療の世界と積み重なるようにしてもう一つの「医療」の世界があることに注目)
現代医学が病気と社会を分けてしまった
現代医学では,死はずっと以前からすでに共同社会から締め出されているし,誕生は臨床的事例と化してしまった.
日々の労働において,また1年の過ぎ行くうちに,出生と死亡をもこめて,自然と要素的な交わりのうちにある社会,われわれが頭に思い描いてみなければならないのは,そのような社会なのである.誕生や死や愛への態度は日常のリズムに直接に結びつけられていたかのようである.
5.ヒルデガルトの人間学
ヒルデガルトのなかで,人間は肉体的組織として=あらゆる意味で肉体である人間として=三つの基本的人間学的範疇のもとに表象されている.
三つの基本的人間学的範疇
①神の御業であり,作られたもの,生成したもの,投げ出されたものであり,それゆえに依存的であって,自律的でも自給自足できるものでもない.(自然に対する依存性,被規定性)
②彼は「相互のための業」であって,「人間そのもの」として考えられるべきでなく,男もしくは女として,一人の人間は他者において,他者とともに実現されるところの関係のなかで考えられねばならぬ.(相互の被規定性=社会性)
③人間は「被造物についての業」,世界についての働きであって,彼自身のため,自己実現のため,あるいは自己の根底をきずくために働くのではなく,
また「彼の魂の救済」のためにはたらくのでもない.彼の働きの場は自然と他者との創造的交わりの世界である.
この業によって人間は自然を変化せしめ、自己の諸要求を満たす。
それだけでなく,自己自身を人間として実現し,いわば人間を越えたものとなるかのごとくである.(生産的活動の規定性)
人間は三つの能力をもっている
人間は三つの能力をもっている.欲望,力能,および行為がそれである.欲望は最初に力能に火をつけ,かくて行為が熱烈な欲求のうちに進行しうる.あなたは神の意志のもとに欲望を,神の威力のうちに力能を,意志と威力を結合する神の寛容のなかで,欲望と力能の両者を内にになう行為を,理解すべきである.
このようにして人間的活動を通じて自然から人類が産出されたのである.(どう考えても、アーレントよりヒルデガルトのほうが数段上でしょう)
6.人間の死とはなにか
生と死との連関
さて医師たちは「ボヘミアの農夫」とともに「人間は生まれ落ちるやいなや」もうすぐ「死するに十分なほど老いている」ことをつねに知っていた.(蝶は、サナギから羽化した途端に死が近づいて来たことを知っている)
生まれ落ち,死にさらされつつ生き,あらゆる有機的生は段階的に無機的存在に近づき,分解し,終末を迎えるのである.
生命から立ち去るということは,たんに疾病によって死の転帰にいたるという意味だけではない.「生命からの立ち去り」(エクシトゥス)は生命の目的をも意味するからである。(蝶が蝶になるのは、蝶の生きる目的を全うすることである)
死は すでに誕生とともに始まっている.かくて、死することもまた一種の「立ち去り」過程であり,さほど劇的なことでもない.なぜならここでは魂は理性の翼を徐々につぼめ,離別の準備をしているからである.
「生も死も,生命を超越する自然系の一つのありよう」(エンゲルス風に言えばタンパク質の存在のあり方)である。生命とは決して閉ざされた循環ではなく,自然に向かって開かれた系,自己を超越する実存である。死は,生命そのものとはことなったものが,生命に関連する系として用をなしているということの,確実な指標である.
人間の肉体的死は,「抵抗することによって実存である生命」が終了したことの帰結である。人間はそれ自体肉体的に人間であるが,それを形成したところの自然に対して反逆し抵抗することによって、実存する存在としての人間となる.
あらゆる事物はそれ自体で事物であると同時に,人間にとっての事物であり、それゆえに人間的事物である.人間すらがそうである.人間的事物はそれ自体として自然的素材で あり,自然に反逆するものとしての人間にとって歴史的素材である.
死すべき術
教皇ヨハネ21世によって,死は壮大なかたちで示されている.ここでは死は生命の真ん中に,生活の術の中心に立ち,死すべき術と直接に結びついている.
人間は自然の一部であると同時に、歴史的には、自然に対する意識的な脱落者であり反逆者である。なるほど人間はその生物学的基体を持つゆえに全自然を代表し,それによってあらゆる生物の規範となっている.しかし歴史の観点からすれば,人間は自然の秩序から脱落し,時間に身をさらし,それゆえ死にたいして投げ出されている.
病気となることは、決して病気自体の過程(プロセス)として理解されることはない.それはむしろ生命の中止ないし怠慢,すなわち「欠如態」として理解されなければならない。
だから死もまた存在を持たず,むしろつねに消極的に生命の「欠如」として,生命の解体と破砕として,破壊と消滅そして,生命的構成物の最後の退行として,釈義され るのである.
自己の肉体の死についてのこの理解こそが,人間を「病める人」となす。そして彼を不安定で苦悩する存在となし,きわめて意識的にその生命を終えるものとするのである.
臨終も死も,健全な共同体の中心に存在する
ここではすべてが,臨終も死もまた,健全な共同体の中心に存在するような閉じた関連系のなかに立っている.
全体としての人間は,生まれつき文化的存在,共同体的存在である.彼は結局は死にさらされることを知りながら,彼の生活を形成することができ,また形成しなければならない.
7.病と受苦
期限付の存在である人間
人間は生涯にわたって変わることなく、永遠なる生命への巡礼の途上にある「旅人としての人間」である。
こうして期限付の存在である人間の三つのフェイズがますます明瞭に地平線上に浮び上がってくる.
①最初の人間がその堕落以前に「素質」すなわち正常な基本状態として用いていたような健全な生命の基本的範疇.
②堕落した人間は、まず「放棄」として,ついで没落と変形として,さらに歪曲と衰弱として,必然的に体験し苦しむ。それが疾病の体験である.
③絶えず期待され、希望さるべきものとしての救済の最終状態は,「回復」であり快癒である.
人間が障害の途中で必ずあらたに体験するのは②「受苦」の範疇である.すなわち苦境と罪における悩みと痛みとして,裕福の絶えざる侵害,平衡の喪失として,援助の必要と援助の要求としての,衰弱と病弱の原体験がそれである.
健康とはそのとき人間全体の肉体的息災と解される.健康であるということはたんなる病気の欠如ではない.それは積極的に生活能力を維持しこれを享受する喜びの状態である.健康であること,健全であることは,結局のところ,生命に意味があること、それが調和されていることを意味する.
病める人間は範例的人間
病める人間は範例的人間として役立っている.危険にさらされたものとして,威嚇されたものとして,肉体の衰弱したものとして範例的なのである.
肉体の健康もまた,たんにもろもろの障害が存しないというのとはまったく異なっている.健康とはむしろ,あらゆる労苦にもかかわらず,意義深い人生を送る力のことである.
肉体は事実,われわれの世界的内在の媒体である.肉体はどこからどこまでも環境にはめ込まれており,われわれはこの環境を同化し,これをいわば肉体として形成し,われわれの精神的体験となすのである.
世界を具体的に同化することにより,世界は絶えずわれわれに親しいものとなる.他方,病気になること はこの親しさの失われることであり,われわれは世界に疎外されるのである.
そのとき肉体はわれわれに,われわれの存在の拘束性と薄弱性を教示してくれるのである。たとえば「心的」諸疾患や老年にあってはいうまでもない.
病気とは過程であるよりはむしろ「欠如態」であり,無秩序であり,人の行く手をさえぎる障害である.それは人がさらに前進するために修復すべき道路の穴といったほうがよい.
そして健康も状態とか所有物ではない.健康とは範疇ではなくて,むしろ態度と期待である.健康とは人がその上を歩くことによって形成される道のようなものである.
8.「治療」の意味
医師とその助手たちすべての行為は,最古の時代より「治療(テラピー)」と呼ばれてきた.これはギリシア語の「テラペウオー」に由来し,「奉仕」という意味に他ならない.
私たちの助けを必要とし、病苦のために私たちを呼んでいる人がいる。私たちは,そういう人に奉仕し,そのために医学的治療の必要な人のことに「心を砕 く」.昔の治療技術は,まず第一に,世話であり,介護であり,専門的な奉仕である.
この奉仕する看護と密着した世話という意味で最初のキリスト者たちはみずからを治療者と名乗った.キリスト自身が初期より「治療者」という称号を帯びていた.
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