ハンナ・アーレントがマルクスを如何に読み込んだか。

そこで 「ハンナ・アーレント マルクス PDF」でグーグル検索をかけると、ぞろぞろ出てくる。一覧表を見ただけでお腹いっぱいという感じだ。

ぼちぼちやっていきますか

まずは、橋本努さんの講義「経済思想」から

ハンナ・アレント『人間の条件』[1958=1973→1994]ちくま文庫

「人間の条件は、人間が条件づけられた存在であるという点にある。いいかえると、人間とは、自然のものであれ人工的なものであれ、すべてのものを自己の存続の条件にするように条件づけられた存在である。」(237)

うーむ、滑り出しはなかなかマルクス的だ。

第一章 人間の条件

◆活動的生活の三類型(19-20)

①労働(labour):人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力

②仕事(work):人間存在の非自然性に対応する活動力。生命を超えて永続する「世界」を作り出す。

③活動(action):モノないし事柄の介入なしに直接人とのあいだで行われる唯一の活動力。

このへんも快調だ。仕事というのはヘーゲルの「仕事」(=陶冶)に相当する概念だろう。③は実践(Praxis)と我々が呼ぶ概念だ。

第二章 公的領域と私的領域

◆政治的動物の自由

「家族」という自然共同体は必要から生まれたものであり、その中で行われるすべての行動は必然によって支配される。

正確に言うと「群れ」(Herd)だろう。家族という形態はそこから析出してくる。

【自由について】

「生活の必要あるいは他人の命令に従属しないということに加えて、自分を命令する立場に置かないという二つのことを意味する。それは支配もしなければ支配されもしないということである」(53-54)

よく言う「~からの自由」と「~への自由」のことでしょうか?

「人間の自由とは、つねに、自分を必然から解放しようという、けっして成功することのない企ての中で獲得されるもの」である。

実存主義のしっぽを引きずってますね。

◆社会的なるものの勃興

社会が勃興し、『家族(oikia)』あるいは経済行動が公的領域に侵入してくるとともに、家計と、かつては家族の私的領域に関連していたすべての問題が『集団的』関心となった。

家族と経済活動を一緒くたにするのは、相当乱暴ですね。「公的領域」というのは旧権力による支配体制のことでしょうか。マルクスの「資本主義に先行する諸形態」は読んでいないようです。

◆私的領域の特徴

・私的領域とは、なにものかを奪われている(deprived)状態を意味している。(60)

・今日、他人によって保証されるリアリティが奪われているので、孤独(lonliness)の大衆現象が現れている。(88)

他人によって富が奪われ、リアリティが奪われることを、ふつうは「疎外」といいます。疎外という言い方を意識的に避けているのだろうか。

◆公的領域の特徴

公的領域は個性のために保持されていた。これに対して社会的領域は、卓越を匿名化し、それぞれの成果よりは人類の進歩を強調する。

アーレントがいう「公的領域」は古代ギリシャのアクロポリスの世界であり、「市民」という名の貴族の社会であり、端的に言えばおとぎ話の世界です。多分ヘーゲルも憧れていた、そしてマルクスの意識の片隅にもある。しかしアジアの東端に住む我々には縁なき世界でしょう。

◆善の無世界性

キリスト教は、公的領域に敵意をもっており、少なくとも、初期のキリスト教はできる限り公的領域から離れた生活を送ろうとする傾向をもっている。

キリスト教の最高価値である「善」は本質的に非人間的で超人間的な特質をもっている。善を愛する人が本質的に宗教的な人間となるのは、善行に固有のこの無世界性のためである。

そしてキリスト教的「善」の帰着がボルシェビズムというわけですか。ご高説ありがとうございました。「悪の極致がロスチャイルドだ」というご意見共々、大変説得力があります。

第三章 労働

◆労働の特徴

労働は目的と手段の関係を明確にもっていない。労働するために食べ、食べるために労働しなければならぬという、固有の「強制的反復」である。(232-33)

どう労働を定義しようとカラスの勝手ですが、これではあまりに還元主義で無内容です。

労働は生命過程を決して乗り越えることができない。このような生命過程の内部では、人間は、労働する力を得るために生き、消費するのか、それとも逆に、消費手段を得るために働くのかというような、目的と手段のカテゴリーを前提とする問いを発することは意味がない。

ニヒルですね。労働、生産活動を含めた人間的活動を、受苦→情熱関係に閉じ込めてしまえば、そうなるかも知れません。おそらくアーレントという数奇な人は、凡人の「営み」という概念を拒否しているのだろうと思います。

◆労働の生産性

近代においては、「労働」と「仕事」の区別ではなく、「生産的労働/非生産的労働」の区別がなされた。

スミスもマルクスも、非生産的労働は寄生的なものであり、世界を富ませないから、この非生産的労働という名称にはまったく価値がないとして軽蔑した。(139-40)

驚くべき謬論です。開いた口がふさがりません。生産と消費、労働と享受はつねに車の両輪です。生産は物質的富を産出し、消費はそれを取り込むことにより欲望を産出するのです。
資本主義においては二つの矛盾があります。生産は社会的に行われ、消費は私的に行われることがひとつです。従って社会的には生産が優先されることになります。
第二には陽の光や水のように、欲望も当然のこととして社会の前提となっていることです。しかし欲望というものはある程度までは必然ですが、それ以上は人間の活動が創りだすものです。
これらはマルクスがヘーゲルとともに強く主張したところです。しかし50年代~60年代のマルクス主義者がどの程度認識していたかは別の話です。

労働は生産性をもっている。その生産性は、労働の生産物にあるのではなく、人間の「力」のなかにある。この力は、自分自身の「再生産」に必要とされる以上の「余剰」を生産する能力をもっている。労働それ自体ではなく、人間の「労働力」の余剰が、労働の生産性を説明する。

熟練作業と未熟練作業の区別や、知的作業と肉体的作業の区別が、古典経済学においてもマルクスの著作においても、何の役割も果たしていない。

一体マルクスのどこを読んだんでしょうねぇ。

◆消費財、使用対象物、活動と言語の生産物(148-50)

活動と言語の“生産物”は、人間関係や人間事象の網の目を構成する。活動と言語と思考は、それ自体では何も「生産」せず、生まず、生命そのものと同じように空虚である。

それを見、聞き、記憶する他人、触知できるものに変形するための媒体があって、リアリティを獲得する。

ここにはアーレントの、物と運動とエネルギーについての形而上学的な立場が示されています。
科学的事実は逆であり、物体はつねに運動の過程にあり、それ自体がエネルギーの塊です。ただそれが可視化されるのはほんの一部であり一瞬なので、我々は確率論的に存在を説明する他ないのです。

◆生(bios)、「生命(soe)の幸福」、社会の生命

マルクスにとって労働とは、個体の生存を保証する「自分自身の生命の再生産」である。『労苦と困難』によって自分の務めを果たした者は、将来、子孫を残すことによって自分も自然の一部にとどまることができるという静かな確信を抱く。

あほか?

労働とは、苦痛の中に現れる「世界喪失」に対応する活動である。「人間の肉体は、…ただ自分が生きることにのみ専念し、自らの肉体が機能する循環運動を超えたり、そこから解放されたりすることなく自然との新陳代謝に閉じ込められたままである。

個人の生命ではなく社会全体の生命が、富の増大と蓄積の過程の主体として考えられるようになると、人間はもはや自分自身の生存にのみかかわるのではなく、「種の一員=類的存在」として、活動する。

そういうのを「疎外された労働」と言うんではないですか? 本当にマルクスを読んだんですか?

◆労働の生産社会から消費社会へ

すべての真面目な活動力は、それが生みだす成果にかかわりなく、労働と呼ばれ、必ずしも個人の生命や社会の生命過程のためではない活動力は、すべて遊びという言葉のもとに一括されている(189)

余暇時間は、消費以外には使用されず、時間があまればあまるほど、その食欲は貪欲となり、渇望的になる。

この辺は、私も前に勉強したことがあって、とくに「経済学批判要綱」の最初に出てくる労働力能という言葉に注目しました。たしかArbeits -Vermehrung だったと思います。消費過程は人間的活動の発展により労働力能を高める過程だというような記述がありました。その後この言葉は使われなくなります。おそらくは経済学批判という作業を進める上で、商品化される対象としての「労働力」という性格に単純化し、絞り込んだのだろうと思います。
余暇というのは、資本の側、社会の側、生産の側から見て余暇なのであって、人間的活動としてはむしろ本質的であるべきです。さらに言えばその中に労働も包摂されるべきです。この辺は中野徹三氏が声を大にして主張したところです。

第四章 仕事

◆工作人の特徴(Homo Faber のこと?)

工作人は地球全体の支配者、主人としてふるまう。その生産性は創造神のイメージで見られる。暴力の経験は、自己確証と満足を与えることができ、生命を貫く自信の源泉にさえなりうる。(228)

人間中心的功利主義の最大の表現は、「いかなる人間も目的のための手段であってはならず、すべての人間が目的自体である」というカントの定式である。

カントの言い方に従えば、人間は目的手段関係の外部に立つ唯一のものであり、一切のものを手段として用いることのできる唯一の目的自体であるということになる。

いやはや、恐れいりました。風車に突っかかるドン・キホーテさながらです。

◆製作(ポイエーシス)

製作の過程は、目的と手段の関係で完全に決定されている。目的が手段を正当化する。

目的(end)は、材料を得るために自然に加えられる暴力を正当化する。

第五章 活動

恐ろしく主観的で観念的で無内容です。取り付く島もありません。一言で言ってジコチュウです。


率直に言って駄文です。変革への意欲は毛ほども感じられません。ベースはエリート趣味です。

最初の期待は失望へと変わっていきました。最後はブーイングです。

彼女は反スターリン、反ボルシェビキの論客として売りだした人ですが、大戦中の態度や華々しい経歴、さらに共産主義者との浅からぬ交友から、左翼にも一定の幻想を持たれているようです。

しかしアイヒマンを許すという立場、さらにその理由が「雑魚だから」というに至っては、エリート主義も極まれりというところでしょう。

マルクスを10年間研究したと書いてあったので読みましたが、研究していません。せいぜいパンフレット一冊読んだくらいでしょう。

もっとも、そういう私も原著を読んだわけではないので、偉そうなことは言えませんが、格がそもそも違うんだから、これくらい勝手にほざいてもバチは当たらないでしょう。